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カテゴリー「2004年の読書遍歴」の25件の記事

2009/05/17

『しゃばけ』 (畠中恵) 感想

妖怪といえば、ある程度はどろどろした物語を思い浮かべる。子供向けであれなんであれ、妖怪が絡むということは、そこに何らかの割り切れなさのようなものを含んだものになりがちだと思うのだ。ぼくが不勉強なだけか?例えばほとんど笑い話に近いような昔話に出てくるような妖怪にも、ぼくはどこかぞっとするものを感じる。
ところが、この物語は違うのだ。読んでいてまずは「軽い」と思った。物語の筋立てが軽いのではない。あくまで口調の問題なのだが。薬種問屋の虚弱な跡取り息子である一太郎と彼を護衛する妖怪たち。彼らの会話が普通の現代文なのに雰囲気が落語なのである。すらすらと面白く読めるのだ。それに、あと江戸の暗さのようなものもない。まったく違う作者たちのまったく違う作品に、それでも共通するあの薄暗い江戸の雰囲気がないのだよ。あくまでも、なんというか事件そのものを除いては日常生活そのもの。そういう日常生活に、これまたふつうに妖怪たちが出没するのである。こういうやり口は初めてだなあ。この世界がどのように発展していくのか、じつに興味深いところだ。(2004/07)

『百器徒然袋 風』 (京極夏彦) 感想

『百器徒然袋 - 雨』に続く京極堂シリーズの番外編第2弾。番外編は他にもあるわけだけれど、これは「探偵小説」と副題にある通り、榎木津礼二郎を中心に起こる事件を収録している。
・「五徳猫」
<七とくの舞をふたつわすれて>と冒頭の石燕の妖怪画にある通り、五徳は貶し言葉なのだ。本来、人には七つの徳が必要だとか。しかも<生まれつき備わっているのが徳>なのだそうだ。あの人には人徳があるとか言うものなあ。自身を振り返ってみるに、やはりふたつどころかみっつもよっつも忘れていそうな気がする。招き猫がどちらの手を挙げていようが、あんまり気にしたことはないのだが、ふつうの人は気にしているのだろうか?案外に商売をする人には常識なのかもしれない。

・「雲外鏡」
人間の記憶などというのはじつにいい加減なものである。時には現実と夢の区別もつかなくなってしまうものであるから。しかしながら、その曖昧さの中にこそ人間を人間たらしめている部分があるのではないかとも、ちょっと思ったりするのである。幻想を幻想と認識しなくなったらどうなるのか?それはこの物語に明らかであろう。つまりは榎木津礼二郎の如きになるわけだ。<他人のことなんかどうでもいいと思っている代わりに、他人が自分をどう思っていようが関係ない>ような人間になるであろう。照魔鏡はすべてインチキだと言いながら、榎木津という人間照魔鏡だけは紛うことなき真物だということだ。ああ、だから彼は現実があまり見えないように目が良くないのか。両方がよく見えたのでは破綻してしまう。いやいや、そういうのが浅はかなのかもしれない。何しろ「榎木津は馬鹿」なのだから。この<馬鹿>とは人間には図れないという意味である。彼の<下僕>にされずにこうして物語としてその活躍を楽しめるということを、喜ぶべきなのであろう。

・「面霊気」
しかしこの本島という男も次々に厄介事に巻き込まれる性格である。いや、物語なのだからそうでなくては始まらないという向きもおられるだろうが、そうではない。やむを得ずに巻き込まれるのと、巻き込まれ型の性格は一線を画しているものなのだ。関口や本島は明らかに後者である。巻き込まれずにはいられないのだ。今回は能面を巡っての一騒動、何でもないことまで彼らの手にかかっては大事に化けてしまうのである。まあ、何でもないということもないのではあるが。
人は見たいものしか見ないものだという説がある。つまり悪意があると思えば相手に悪意のみを、善意があると思えば善意のみを見るということだ。端折って言えば、大変だと思うから大変なのである。すなわち、巻き込まれたいと思っているから巻き込まれる、と。<凡人の、小物の、小市民の、凡庸な、影が薄い平凡で普通の僕が、厭だなんて思う訳がない>などと思うから駄目なのだ。厭だけど、まあ仕方ないから行ってやるか、がふつうの反応ではないのか?論理が飛躍しすぎているだろうか?
榎木津の父親である元子爵まで登場しての大騒動、ラストの「本島俊夫様」にはちょっと驚いたのであるよ。(2004/07)

2009/05/10

『新耳袋 第五夜・第六夜』 (木原浩勝 中山市朗) 感想

実話は苦手だ、と第一夜~第四夜の感想にも書きました。ひとつかふたつそういう話を聞いただけでも背筋が寒いような気分に陥るというのに、こう話数を集められては、どうにもなりません。しかも、見知った関西の地名が数多く出てくるというところがみそです。特別な場所でないはずのあちこちを通るたびに、ああここがあの話の舞台になったあたりだ、などと考えていては身が持たないではありませんか。最近、会社が大阪市内に移転してからなおのことそう思います。
それなら、一冊でやめておけばよかったんじゃないの?と言われるでしょうが、それがそうもいきません。逆に、ここには何もないのだろうな、というふうに思考パターンが最近は変わってきたからなのです。あらかじめ仕入れておける情報であるなら、仕入れておきたい。そういう気分です。でも、単行本だともしかすると情報が新しすぎるのではないかという妙に屈折した気分も半ばですね・・・・・・。どうしたものでしょう?もともとホラーだの怪談だのは大好きで山のように読んでいるわけで、たいていのものには耐性があるはずなのですよ。実話は苦手と言いつつ、最近では再現フィルムなんかも大丈夫だったのですが、どうしてこのシリーズのみが心に引っかかるのでしょうか……。(2004/06)

『甘露梅 お針子おとせ吉原春秋』 (宇江佐真理) 感想

岡っ引の亭主に先立たれたおとせは、息子が嫁を迎えることになったため、家を出て吉原で住込みのお針子になるが……。連作短編集。
・「仲ノ町・夜桜」 <三十六のおとせは、どう見ても遊女には見えない>とある。時代の隔たりを感じるな。昔は、人生はもっと短かったのだ。その短さを念頭に、吉原のわりなさを噛み締める佳品。
・「甘露梅」 表題作。<四角卵、晦日の月>などと言われても、若年の読者にはもしかするとピンとこないのかも……。真実の気持ちをほんの少しだけ伝えるに甘露梅。
・「夏しぐれ」 <当たり前に物を考える>おとせはやはりここでは部外者であろう。浮舟の言葉が真実そうであるとはぼくには思えない。その、思えない部分を汲み取れないからこその<当たり前>でもあるのか?
・「後の月」 亭主がもと岡っ引という設定がいちばん生きているのがこの編ではあるが、でもあと味が悪い。最後のサプライズにも、なんだかいやな気持ちになったのは、ぼくが現代人だからだろうか?
・「くくり猿」 くくり猿とは客を引き留めるために布団につけるまじないだそうである。まじないは効いたのだと信じたい。そうでなければ、やりきれないではないか。
・「仮宅・雪景色」 <だって、寒かったんですもの> そうだな、なんだか読み進むごとに寒くなった。<当たり前>であるというのは難しいことだ。吉原では、おとせ以外が普通なのである。それが世間一般。<当たり前>なおとせは異常なのだ。寒さを理由にそうするだけのことはあると思う。(2004/06)

『Q&A』 (恩田陸) 感想

じつに無気味な話です。こういう話を書くから恩田陸を読むのはやめられない。
大型のショッピングセンターで事故が発生し、居合わせた人々は暴徒と化す。死者69名、負傷者119名、そしてその原因は特定できていない。
最初のほうは原因を探ろうとする何者かが、現場に居合わせた人々にインタビューをするというQ&A形式で進められます。しかし、それらの問いを発する者、そして答える者が移り変わっていくうちに、物語は更なる混迷の度合いを深めていくのです。芥川の「藪の中」ですね。同じ事件のはずなのに、見る者そして方向が変化することによって、まったく別の様相を呈してくる。と、ここまで書いて思ったのですが、ということはTVで流れるニュースなどは、こういう記者たちのQ&Aによるバイアスがかかったあとに我々の目にふれるわけで、どこかの誰かにとって都合の悪い情報が例え切り捨てられていたとしても、わからないということにもなりますね。怖い怖い。最後のあたりの血に塗れたぬいぐるみを引いて歩いていた少女のエピソードが、何よりもそれを強く感じさせます。
そして、この最後の部分がオカルトになっているということで結末の賛否が分かれるのではないかと思うのですが、どうでしょう?ぼくの解釈はこうです。ただでさえ混迷し確たる要因も判らぬ事態にさえ、いや、そういう事態だからこそ、人間というものは自ら<意味>を付与せずにはいられない生き物である。例えそれがどんなにオカルティックで周囲から不自然に見えようが、その人たちにとってはそれが真実なのでしょう。そういう<真実>なしには人間はきっと生きていけない。
確たる原因もなく事件は起こるものであるし、その結果は多くの人々の人生を狂わせるのでしょう。狂い方にもあらゆる種類があって然りなのです。それはとても不幸な巡り合わせですが……。この物語を読み終えた時、インタビュアー恩田陸の携えたマイクが、音もなくこちらを向くような気がしませんか?<それでは、これからあなたに幾つかの質問をします>と。(2004/06)

『グイン・サーガ95 ドールの子』 (栗本薫) 感想

この編を読んでいて思うのは、やはり言葉を通じ合わせるというのは難しいことであるな、ということだ。マリウスの詩人の言葉はサイロンの宮廷には虚しく響くだけだし、イシュトヴァーンの思いの熱さは国家という決め事の中ではいびつに感じずにはいられない。両者とも、自分の持つ言葉が最上のものであると信じているのかな?詩という大義を掲げるのも、国家を成すという大義を掲げるのも、しょせんは同じようなものなのかもしれない。それのみに邁進していると、周囲が見えなくなるということにおいてはね。ただ、彼らの言うことがすべて誤りというわけでもなかろう。あんなにも彼らに人々が魅きつけられてやまないのは、そこにふつうは到達しえない真実があるということかもしれない。とはいえ、彼らの言うこと為すことを遠巻きにしてながめているくらいが、ふつうの人間には幸せなのかもしれない、とも思う。同じ言葉をしゃべっていながら、そこには決して通じ合うことのできない隔たりがあるのだから。(2004/06)

『墜ちていく僕たち』 (森博嗣) 感想

なんですかこりゃあ(笑)。帯にはファンタスティック・ミステリィとあるけれど、激しく間違っているような気がする。インスタントラーメンを食べたら性転換ってあなた、これはスラップスティックでしょ?少なくとも、新本格とは何の接点もないと思うぞ。S&Mシリーズのファンなんかが次に読むのに選ぶ作品としては、あんまりお薦めできない。何というか、森氏のこれまでの非シリーズ短編にあった言葉遊び的な傾向を持つものをシリーズ化するとこんなふうになるんだよ、ってな見本なのだろうね。連作短編だけど、個々にコメントするのはぼくには不可能ですな。
この本を読んでばか笑いのできる人間はきっと言語感覚に特に優れているのかも。対して、性転換するには、ちょっとお互いに気になるふたりが神社の階段から転げ落ちないとダメなんだよ、とか理屈をこねる思考を持った人にはあんまり楽しめないのかもしれない。ぼくはといえばあれだな。中途半端なファンだからして、ハードカバーで買わなくてよかった、とか思ってます。ハードカバーで肩肘はって読む本じゃない。文庫か新書で気軽にいきたいですねえ、こういうのは。(2004/06)

『神のふたつの貌』 (貫井徳郎) 感想

宗教的な物語というのは、やはり読んでいて辛いものがある。まずは、宗教というものにここまで真摯に向かい合ったことがないので、読み進むごとに引っかかりをおぼえてしまうのが原因であろう。主人公にうまく感情移入できないのである。いや、誤解しないでいただきたいのだが、宗教に興味がないと言っているのでもないし、宗教が嫌いだと言っているのでもない。たぶん、どちらかといえば、そういう話が自分は好きなのだろうと思う。ただ、のめりこむ気持ちが判らないのだ。いつも冷めている自分を感じる。<神の沈黙>か……。沈黙しているからといって、神がいないというわけでもないだろう?どこかで奇跡が起きたからといって、それが神の恩寵などではないのと同じことだ。そうだ。ぼくにとっては、神がいようがいなかろうが同じことなのだ。超越者に祈らないのが自分のスタンスだ。無神論などというものではない。神はいるかもしれない、またはいないかもしれない。でも、ぼくはそれには関係がない。ただ、それだけのことだ。
この物語の主人公は、自分を特別な者に考えすぎている。神の視線を感じることがそんなに重要なことなのだろうか?そうすることによって、視野狭窄に陥っているだけではないのか?いや、ぼくは自身が宗教に対していいかげんなのでそう感じるのだろうか?ここは、クリスチャンの意見をぜひに聞いてみたいが、ためらうところだ。なぜかって?それは、無限の善意に満ちた彼ら宗教者と言葉を交わしているうちに、自分がとてつもない悪者に思えてくるからなのだが……。(2004/05)

『グイン・サーガ外伝19 初恋』 (栗本薫) 感想

「みんなただの自己満足にすぎないんだ」、なんていうのは優秀な若者にありがちな身勝手だと、ぼくは思いますがね。たしかに、若きアルド・ナリスの周囲はかくも特殊な状況にはあったのだろうけれど……。少年の日の彼と、それ以後の彼を隔てる事件がこれであったとは、何とやっぱり不幸なことだな、と思われて仕方ありません。その孤独は、自ら選びとったものである、と。また、何にも増して、それが自らのエゴイズムによるものだと、ほんとうは深く彼自身身にしみてわかっている、と。そして、こういう事件をきっかけにして、自ら定めた道がこれである、と。理論的にわりきれないもの-例えば恋-を切って捨てるということは、それは生身の人間であることを切り捨てるのと同じことなんではないかい?あのシルヴィアを愛しく思っているグインというのも不可思議ではあるけれど、まだしも人間的には判りやすいような気がするのであるよ。(2004/05)

『禁じられた楽園』 (恩田陸) 感想

熊野の山中に天才美術家がつくった巨大な”野外美術館”。なるほど、恩田版『パノラマ島奇談』なわけだな。映像的な、あるいは聴覚的な歪みが人間の感覚を狂わせて追いつめていく様は秀逸。恩田作品でこのテーマだと耽美方向に傾いていくのではないかと危惧していたのだが、あやういところでバランスしている感じ。これ、このまま映像化できればすごいものになると思うのだがいかが?いや、まあ、このままとか言った時点で無理だということは百も承知だけれど。頁を読み進むごとにイマジネーションに圧倒される。だから、謎解き先行でストーリーを追うように読むと損するかもしれない。これはそういう読み方をする物語じゃないと思う。ただ、結末部については、少々ご都合主義的ではないかい?もっと妖しくディープに落としてもよかったのではなかろうか、と感じますね。
ちなみに、この物語の中でいちばん好きなエピソードは律子の語る毬絵ちゃんのもの。ネット怪談なんかにありそうな話だといえばそれまでだけれど、作中に構築された迷宮を登場人物たちと同時体験しながらあの話の部分を読むと、真面目な話、凍りつくといっても過言ではないですよ。さすがです。(2004/05)