『百器徒然袋 - 雨』に続く京極堂シリーズの番外編第2弾。番外編は他にもあるわけだけれど、これは「探偵小説」と副題にある通り、榎木津礼二郎を中心に起こる事件を収録している。
・「五徳猫」
<七とくの舞をふたつわすれて>と冒頭の石燕の妖怪画にある通り、五徳は貶し言葉なのだ。本来、人には七つの徳が必要だとか。しかも<生まれつき備わっているのが徳>なのだそうだ。あの人には人徳があるとか言うものなあ。自身を振り返ってみるに、やはりふたつどころかみっつもよっつも忘れていそうな気がする。招き猫がどちらの手を挙げていようが、あんまり気にしたことはないのだが、ふつうの人は気にしているのだろうか?案外に商売をする人には常識なのかもしれない。
・「雲外鏡」
人間の記憶などというのはじつにいい加減なものである。時には現実と夢の区別もつかなくなってしまうものであるから。しかしながら、その曖昧さの中にこそ人間を人間たらしめている部分があるのではないかとも、ちょっと思ったりするのである。幻想を幻想と認識しなくなったらどうなるのか?それはこの物語に明らかであろう。つまりは榎木津礼二郎の如きになるわけだ。<他人のことなんかどうでもいいと思っている代わりに、他人が自分をどう思っていようが関係ない>ような人間になるであろう。照魔鏡はすべてインチキだと言いながら、榎木津という人間照魔鏡だけは紛うことなき真物だということだ。ああ、だから彼は現実があまり見えないように目が良くないのか。両方がよく見えたのでは破綻してしまう。いやいや、そういうのが浅はかなのかもしれない。何しろ「榎木津は馬鹿」なのだから。この<馬鹿>とは人間には図れないという意味である。彼の<下僕>にされずにこうして物語としてその活躍を楽しめるということを、喜ぶべきなのであろう。
・「面霊気」
しかしこの本島という男も次々に厄介事に巻き込まれる性格である。いや、物語なのだからそうでなくては始まらないという向きもおられるだろうが、そうではない。やむを得ずに巻き込まれるのと、巻き込まれ型の性格は一線を画しているものなのだ。関口や本島は明らかに後者である。巻き込まれずにはいられないのだ。今回は能面を巡っての一騒動、何でもないことまで彼らの手にかかっては大事に化けてしまうのである。まあ、何でもないということもないのではあるが。
人は見たいものしか見ないものだという説がある。つまり悪意があると思えば相手に悪意のみを、善意があると思えば善意のみを見るということだ。端折って言えば、大変だと思うから大変なのである。すなわち、巻き込まれたいと思っているから巻き込まれる、と。<凡人の、小物の、小市民の、凡庸な、影が薄い平凡で普通の僕が、厭だなんて思う訳がない>などと思うから駄目なのだ。厭だけど、まあ仕方ないから行ってやるか、がふつうの反応ではないのか?論理が飛躍しすぎているだろうか?
榎木津の父親である元子爵まで登場しての大騒動、ラストの「本島俊夫様」にはちょっと驚いたのであるよ。(2004/07)
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