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2009年5月の57件の投稿

2009/05/27

栗本薫氏の訃報

栗本薫氏の訃報
何と言っていいのかわからない。体調が思わしくないということは、グインのあとがきでもしばしば触れられていたので知ってはいた。知ってはいたのだが、作品がコンスタントに発表されているので、大丈夫なんだと思っていた。よもや、こんなに早くと信じられない気持ちです。アニメも始まり、100巻までを収録した記念豪華本も出るというのに……。多くの謎を残したまま未完に終わったグイン・サーガ。ストックがあるようなことは書いていらしたので、あと何冊かは刊行されるのでしょう。でも、もう栗本さんのグインとして完結することはないのだな……。口惜しい思いでいっぱいですが、もちろん誰よりも口惜しいと思われているのはご自身なのでしょう。
今はただ、ご冥福をお祈りするばかりです。

2009/05/24

『仮面ライダーディケイド 第18話 サボる響鬼』 感想

仮面ライダーディケイド 第18話 サボる響鬼を観ました。
おおおお。なんだ、このオリジナルキャスト率の高さは! ザンキ(松田賢二)、イブキ(渋江譲二)、アキラ(秋山奈々)、トドロキ(川口真五)。なんだか懐かしい。それなのに、この受ける印象の微妙さときたら……。響鬼って一歩間違うと、こんなにチャラい感じになってしまうのか?特に、変身が解除される時に弟子たちが持ってくる、サントリー伊右衛門の暖簾のような幕にとりわけ拒否反応が(笑)。
でも、それでもこうして観てみると、行動隊長ビックワンみたいな衣装のデビット伊東さんも悪くはないんだけど、やる気なしモードの細川茂樹さんを観てみたかったぞ。
そして、変身シーンで出てくる文字が笑わせてくれる。「門矢士」はともかく、「写」ってのはありか(笑)?ユウスケはやっぱり「空我」なんだなあ、と思っていたら、とどめは鬼合戦で「桃」。
観はじめた時は違和感あったけど、総じては面白かった。ただなあ。ザンキがアキラに惚れてるという設定はどうにかならんのか?ここまでオリジナルキャストにするなら、日菜佳さんの写真を持っていて欲しかったと思ったのはオレだけではあるまいよ。神戸みゆきさんが亡くなってから、もう一年近くにもなるのだなあ。

2009/05/17

『ジオン軍の失敗』 (岡嶋裕史) 感想

失敗する製品が世に出てしまうのは何故なのかを『機動戦士ガンダム』におけるジオン軍のモビルスーツ開発を例にとって解説したビジネス書。宇宙世紀0090年代以降に書かれた技術開発史のスタイルをとっています。また、ガンダム本にしてはめずらしく、イラストは各章の扉絵のみです。よって、MS-06F MS-06J MS-06S MS-06Rなどと文中に並べられた型式番号からモビルスーツの相違がすっと頭に浮かぶ人により向いているといえるかもしれません。ガンプラの組み立て説明書にある開発背景みたいな説明を読んで喜べる人にはより向いているでしょう。
中身はいたって真面目なビジネス本であり、実務に応用できます。章の副題だけみても「技術規格を増やすのは善か悪か」「投入するタイミングを失した技術は、どんなに優秀でも成功しない」「「使う人がいない」製品は、なぜできあがるのか」「仕様はどこかで決断しなくてはならない」など、ほんとうに耳が痛いものばかり。大いに参考とさせていただくつもりです (2009/05/17)

『アラミスと呼ばれた女』 (宇江佐真理) 感想

出島で働くお柳は、通詞である父親からフランス語の手ほどきを受ける。女人禁制の通詞という職業にあこがれるお柳は、後に榎本武揚と呼ばれる男との出会うのであった。

戊辰戦争前後を舞台にしたアラミスと呼ばれた男装の通詞の物語。読了して、こんなにも辛い思いがするのはどうしてだろう?お柳の榎本武揚への思いがなかなか報われないからか、それとも男装してまで通詞としての役目を通すという、その時代性にか。ちょっと息苦しい。お柳に男装させてもいいとは思うのだが、なんだか重いのであるよ。いや、重くても、報われる恋の結果とか職務の達成感とかあればよかったのではないか?あるいは、譲りに譲って生活の安堵感でもいい。だから、とりわけ、大塚とのエピソードは、得心がいかぬ。お柳に感情移入できぬ。それとも、年をとるとわかるようになるのだろうかな。「皆んな、なかったも同然」といった心持ちも。それはなんだか寂しすぎるような気がするのだよ。(2009/05/17)

『しゃばけ』 (畠中恵) 感想

妖怪といえば、ある程度はどろどろした物語を思い浮かべる。子供向けであれなんであれ、妖怪が絡むということは、そこに何らかの割り切れなさのようなものを含んだものになりがちだと思うのだ。ぼくが不勉強なだけか?例えばほとんど笑い話に近いような昔話に出てくるような妖怪にも、ぼくはどこかぞっとするものを感じる。
ところが、この物語は違うのだ。読んでいてまずは「軽い」と思った。物語の筋立てが軽いのではない。あくまで口調の問題なのだが。薬種問屋の虚弱な跡取り息子である一太郎と彼を護衛する妖怪たち。彼らの会話が普通の現代文なのに雰囲気が落語なのである。すらすらと面白く読めるのだ。それに、あと江戸の暗さのようなものもない。まったく違う作者たちのまったく違う作品に、それでも共通するあの薄暗い江戸の雰囲気がないのだよ。あくまでも、なんというか事件そのものを除いては日常生活そのもの。そういう日常生活に、これまたふつうに妖怪たちが出没するのである。こういうやり口は初めてだなあ。この世界がどのように発展していくのか、じつに興味深いところだ。(2004/07)

『百器徒然袋 風』 (京極夏彦) 感想

『百器徒然袋 - 雨』に続く京極堂シリーズの番外編第2弾。番外編は他にもあるわけだけれど、これは「探偵小説」と副題にある通り、榎木津礼二郎を中心に起こる事件を収録している。
・「五徳猫」
<七とくの舞をふたつわすれて>と冒頭の石燕の妖怪画にある通り、五徳は貶し言葉なのだ。本来、人には七つの徳が必要だとか。しかも<生まれつき備わっているのが徳>なのだそうだ。あの人には人徳があるとか言うものなあ。自身を振り返ってみるに、やはりふたつどころかみっつもよっつも忘れていそうな気がする。招き猫がどちらの手を挙げていようが、あんまり気にしたことはないのだが、ふつうの人は気にしているのだろうか?案外に商売をする人には常識なのかもしれない。

・「雲外鏡」
人間の記憶などというのはじつにいい加減なものである。時には現実と夢の区別もつかなくなってしまうものであるから。しかしながら、その曖昧さの中にこそ人間を人間たらしめている部分があるのではないかとも、ちょっと思ったりするのである。幻想を幻想と認識しなくなったらどうなるのか?それはこの物語に明らかであろう。つまりは榎木津礼二郎の如きになるわけだ。<他人のことなんかどうでもいいと思っている代わりに、他人が自分をどう思っていようが関係ない>ような人間になるであろう。照魔鏡はすべてインチキだと言いながら、榎木津という人間照魔鏡だけは紛うことなき真物だということだ。ああ、だから彼は現実があまり見えないように目が良くないのか。両方がよく見えたのでは破綻してしまう。いやいや、そういうのが浅はかなのかもしれない。何しろ「榎木津は馬鹿」なのだから。この<馬鹿>とは人間には図れないという意味である。彼の<下僕>にされずにこうして物語としてその活躍を楽しめるということを、喜ぶべきなのであろう。

・「面霊気」
しかしこの本島という男も次々に厄介事に巻き込まれる性格である。いや、物語なのだからそうでなくては始まらないという向きもおられるだろうが、そうではない。やむを得ずに巻き込まれるのと、巻き込まれ型の性格は一線を画しているものなのだ。関口や本島は明らかに後者である。巻き込まれずにはいられないのだ。今回は能面を巡っての一騒動、何でもないことまで彼らの手にかかっては大事に化けてしまうのである。まあ、何でもないということもないのではあるが。
人は見たいものしか見ないものだという説がある。つまり悪意があると思えば相手に悪意のみを、善意があると思えば善意のみを見るということだ。端折って言えば、大変だと思うから大変なのである。すなわち、巻き込まれたいと思っているから巻き込まれる、と。<凡人の、小物の、小市民の、凡庸な、影が薄い平凡で普通の僕が、厭だなんて思う訳がない>などと思うから駄目なのだ。厭だけど、まあ仕方ないから行ってやるか、がふつうの反応ではないのか?論理が飛躍しすぎているだろうか?
榎木津の父親である元子爵まで登場しての大騒動、ラストの「本島俊夫様」にはちょっと驚いたのであるよ。(2004/07)

2009/05/10

『新耳袋 第五夜・第六夜』 (木原浩勝 中山市朗) 感想

実話は苦手だ、と第一夜~第四夜の感想にも書きました。ひとつかふたつそういう話を聞いただけでも背筋が寒いような気分に陥るというのに、こう話数を集められては、どうにもなりません。しかも、見知った関西の地名が数多く出てくるというところがみそです。特別な場所でないはずのあちこちを通るたびに、ああここがあの話の舞台になったあたりだ、などと考えていては身が持たないではありませんか。最近、会社が大阪市内に移転してからなおのことそう思います。
それなら、一冊でやめておけばよかったんじゃないの?と言われるでしょうが、それがそうもいきません。逆に、ここには何もないのだろうな、というふうに思考パターンが最近は変わってきたからなのです。あらかじめ仕入れておける情報であるなら、仕入れておきたい。そういう気分です。でも、単行本だともしかすると情報が新しすぎるのではないかという妙に屈折した気分も半ばですね・・・・・・。どうしたものでしょう?もともとホラーだの怪談だのは大好きで山のように読んでいるわけで、たいていのものには耐性があるはずなのですよ。実話は苦手と言いつつ、最近では再現フィルムなんかも大丈夫だったのですが、どうしてこのシリーズのみが心に引っかかるのでしょうか……。(2004/06)

『甘露梅 お針子おとせ吉原春秋』 (宇江佐真理) 感想

岡っ引の亭主に先立たれたおとせは、息子が嫁を迎えることになったため、家を出て吉原で住込みのお針子になるが……。連作短編集。
・「仲ノ町・夜桜」 <三十六のおとせは、どう見ても遊女には見えない>とある。時代の隔たりを感じるな。昔は、人生はもっと短かったのだ。その短さを念頭に、吉原のわりなさを噛み締める佳品。
・「甘露梅」 表題作。<四角卵、晦日の月>などと言われても、若年の読者にはもしかするとピンとこないのかも……。真実の気持ちをほんの少しだけ伝えるに甘露梅。
・「夏しぐれ」 <当たり前に物を考える>おとせはやはりここでは部外者であろう。浮舟の言葉が真実そうであるとはぼくには思えない。その、思えない部分を汲み取れないからこその<当たり前>でもあるのか?
・「後の月」 亭主がもと岡っ引という設定がいちばん生きているのがこの編ではあるが、でもあと味が悪い。最後のサプライズにも、なんだかいやな気持ちになったのは、ぼくが現代人だからだろうか?
・「くくり猿」 くくり猿とは客を引き留めるために布団につけるまじないだそうである。まじないは効いたのだと信じたい。そうでなければ、やりきれないではないか。
・「仮宅・雪景色」 <だって、寒かったんですもの> そうだな、なんだか読み進むごとに寒くなった。<当たり前>であるというのは難しいことだ。吉原では、おとせ以外が普通なのである。それが世間一般。<当たり前>なおとせは異常なのだ。寒さを理由にそうするだけのことはあると思う。(2004/06)

『Q&A』 (恩田陸) 感想

じつに無気味な話です。こういう話を書くから恩田陸を読むのはやめられない。
大型のショッピングセンターで事故が発生し、居合わせた人々は暴徒と化す。死者69名、負傷者119名、そしてその原因は特定できていない。
最初のほうは原因を探ろうとする何者かが、現場に居合わせた人々にインタビューをするというQ&A形式で進められます。しかし、それらの問いを発する者、そして答える者が移り変わっていくうちに、物語は更なる混迷の度合いを深めていくのです。芥川の「藪の中」ですね。同じ事件のはずなのに、見る者そして方向が変化することによって、まったく別の様相を呈してくる。と、ここまで書いて思ったのですが、ということはTVで流れるニュースなどは、こういう記者たちのQ&Aによるバイアスがかかったあとに我々の目にふれるわけで、どこかの誰かにとって都合の悪い情報が例え切り捨てられていたとしても、わからないということにもなりますね。怖い怖い。最後のあたりの血に塗れたぬいぐるみを引いて歩いていた少女のエピソードが、何よりもそれを強く感じさせます。
そして、この最後の部分がオカルトになっているということで結末の賛否が分かれるのではないかと思うのですが、どうでしょう?ぼくの解釈はこうです。ただでさえ混迷し確たる要因も判らぬ事態にさえ、いや、そういう事態だからこそ、人間というものは自ら<意味>を付与せずにはいられない生き物である。例えそれがどんなにオカルティックで周囲から不自然に見えようが、その人たちにとってはそれが真実なのでしょう。そういう<真実>なしには人間はきっと生きていけない。
確たる原因もなく事件は起こるものであるし、その結果は多くの人々の人生を狂わせるのでしょう。狂い方にもあらゆる種類があって然りなのです。それはとても不幸な巡り合わせですが……。この物語を読み終えた時、インタビュアー恩田陸の携えたマイクが、音もなくこちらを向くような気がしませんか?<それでは、これからあなたに幾つかの質問をします>と。(2004/06)

『グイン・サーガ95 ドールの子』 (栗本薫) 感想

この編を読んでいて思うのは、やはり言葉を通じ合わせるというのは難しいことであるな、ということだ。マリウスの詩人の言葉はサイロンの宮廷には虚しく響くだけだし、イシュトヴァーンの思いの熱さは国家という決め事の中ではいびつに感じずにはいられない。両者とも、自分の持つ言葉が最上のものであると信じているのかな?詩という大義を掲げるのも、国家を成すという大義を掲げるのも、しょせんは同じようなものなのかもしれない。それのみに邁進していると、周囲が見えなくなるということにおいてはね。ただ、彼らの言うことがすべて誤りというわけでもなかろう。あんなにも彼らに人々が魅きつけられてやまないのは、そこにふつうは到達しえない真実があるということかもしれない。とはいえ、彼らの言うこと為すことを遠巻きにしてながめているくらいが、ふつうの人間には幸せなのかもしれない、とも思う。同じ言葉をしゃべっていながら、そこには決して通じ合うことのできない隔たりがあるのだから。(2004/06)

『墜ちていく僕たち』 (森博嗣) 感想

なんですかこりゃあ(笑)。帯にはファンタスティック・ミステリィとあるけれど、激しく間違っているような気がする。インスタントラーメンを食べたら性転換ってあなた、これはスラップスティックでしょ?少なくとも、新本格とは何の接点もないと思うぞ。S&Mシリーズのファンなんかが次に読むのに選ぶ作品としては、あんまりお薦めできない。何というか、森氏のこれまでの非シリーズ短編にあった言葉遊び的な傾向を持つものをシリーズ化するとこんなふうになるんだよ、ってな見本なのだろうね。連作短編だけど、個々にコメントするのはぼくには不可能ですな。
この本を読んでばか笑いのできる人間はきっと言語感覚に特に優れているのかも。対して、性転換するには、ちょっとお互いに気になるふたりが神社の階段から転げ落ちないとダメなんだよ、とか理屈をこねる思考を持った人にはあんまり楽しめないのかもしれない。ぼくはといえばあれだな。中途半端なファンだからして、ハードカバーで買わなくてよかった、とか思ってます。ハードカバーで肩肘はって読む本じゃない。文庫か新書で気軽にいきたいですねえ、こういうのは。(2004/06)

『神のふたつの貌』 (貫井徳郎) 感想

宗教的な物語というのは、やはり読んでいて辛いものがある。まずは、宗教というものにここまで真摯に向かい合ったことがないので、読み進むごとに引っかかりをおぼえてしまうのが原因であろう。主人公にうまく感情移入できないのである。いや、誤解しないでいただきたいのだが、宗教に興味がないと言っているのでもないし、宗教が嫌いだと言っているのでもない。たぶん、どちらかといえば、そういう話が自分は好きなのだろうと思う。ただ、のめりこむ気持ちが判らないのだ。いつも冷めている自分を感じる。<神の沈黙>か……。沈黙しているからといって、神がいないというわけでもないだろう?どこかで奇跡が起きたからといって、それが神の恩寵などではないのと同じことだ。そうだ。ぼくにとっては、神がいようがいなかろうが同じことなのだ。超越者に祈らないのが自分のスタンスだ。無神論などというものではない。神はいるかもしれない、またはいないかもしれない。でも、ぼくはそれには関係がない。ただ、それだけのことだ。
この物語の主人公は、自分を特別な者に考えすぎている。神の視線を感じることがそんなに重要なことなのだろうか?そうすることによって、視野狭窄に陥っているだけではないのか?いや、ぼくは自身が宗教に対していいかげんなのでそう感じるのだろうか?ここは、クリスチャンの意見をぜひに聞いてみたいが、ためらうところだ。なぜかって?それは、無限の善意に満ちた彼ら宗教者と言葉を交わしているうちに、自分がとてつもない悪者に思えてくるからなのだが……。(2004/05)

『グイン・サーガ外伝19 初恋』 (栗本薫) 感想

「みんなただの自己満足にすぎないんだ」、なんていうのは優秀な若者にありがちな身勝手だと、ぼくは思いますがね。たしかに、若きアルド・ナリスの周囲はかくも特殊な状況にはあったのだろうけれど……。少年の日の彼と、それ以後の彼を隔てる事件がこれであったとは、何とやっぱり不幸なことだな、と思われて仕方ありません。その孤独は、自ら選びとったものである、と。また、何にも増して、それが自らのエゴイズムによるものだと、ほんとうは深く彼自身身にしみてわかっている、と。そして、こういう事件をきっかけにして、自ら定めた道がこれである、と。理論的にわりきれないもの-例えば恋-を切って捨てるということは、それは生身の人間であることを切り捨てるのと同じことなんではないかい?あのシルヴィアを愛しく思っているグインというのも不可思議ではあるけれど、まだしも人間的には判りやすいような気がするのであるよ。(2004/05)

『禁じられた楽園』 (恩田陸) 感想

熊野の山中に天才美術家がつくった巨大な”野外美術館”。なるほど、恩田版『パノラマ島奇談』なわけだな。映像的な、あるいは聴覚的な歪みが人間の感覚を狂わせて追いつめていく様は秀逸。恩田作品でこのテーマだと耽美方向に傾いていくのではないかと危惧していたのだが、あやういところでバランスしている感じ。これ、このまま映像化できればすごいものになると思うのだがいかが?いや、まあ、このままとか言った時点で無理だということは百も承知だけれど。頁を読み進むごとにイマジネーションに圧倒される。だから、謎解き先行でストーリーを追うように読むと損するかもしれない。これはそういう読み方をする物語じゃないと思う。ただ、結末部については、少々ご都合主義的ではないかい?もっと妖しくディープに落としてもよかったのではなかろうか、と感じますね。
ちなみに、この物語の中でいちばん好きなエピソードは律子の語る毬絵ちゃんのもの。ネット怪談なんかにありそうな話だといえばそれまでだけれど、作中に構築された迷宮を登場人物たちと同時体験しながらあの話の部分を読むと、真面目な話、凍りつくといっても過言ではないですよ。さすがです。(2004/05)

『黄昏の百合の骨』 (恩田陸) 感想

ひとことで言うのであれば、理瀬が家に戻ってくる話、である。何それ?と仰る向きは、まだ恩田作品に触れて日の浅い方々と言えましょう。『三月は深き紅の淵を』『麦の海に沈む果実』、と続く、あるいは世界を共有しているあの物語です。恩田作品のうちでももっとも耽美傾向が強いのがこの一連の流れであることは間違いないでしょう。<魔女の家>と呼ばれる洋館、「理瀬が半年以上ここに住まない限り家は処分してはならない」という不可思議な遺言、そしてとらえどころのない人々。時々あまりに香りが強すぎて投げ出したくなるのですが(笑)何とか読了いたしました。だいたい、ひとつの物語としては完全には独立していなくて、前作までを読んでいないと理解に苦しむようなシーンとか回想などが随所に散りばめられているのですよ。そして、ストーリーそのものよりも、その回想のほうが本筋のような気がするからくせものです。あと、時々、前作までと関わりで、時間的な前後がなんとなく納得いかないような気もしたのですが、これは記憶違いかもしれません。でもまあ、そういうところを探しながら読むのが、この物語のいい楽しみ方なんでしょうね。一見さんお断り、といった感じです。たまたまこの作品から読みはじめた方がいらっしゃったら、感想を伺いたいと思います。無心に読むには、すでに深入りしすぎてしまいました(笑)。(2004/05)

『おぅねぇすてぃ』 (宇江佐真理) 感想

著者としてはめずらしく明治時代が背景。英語の通詞を目指している千吉と、米国人貿易商の妻となっているその幼馴染お順の恋物語。男女の微妙な感情のすれ違いという点では、やはり読ませる。だが、設定としてかなり特殊なので、例えば若者がこれを読んだとすればピンとこないのではないか、とも思った。要するに時代に引き裂かれる、ということについてなのだが……。お順は考えのはっきりとした女性に描かれているが、かといって感情にまかせた行動をとるわけではない。まあ、意地っぱりだというところはあるにせよ。この活動的ながら一歩ひいたようなところがいい、とぼくなどは思うのであるが、現代女性には感情移入しにくいキャラクタということになるのかもしれない。感情移入しにくいといえば、千吉もそうか。こちらはこちらで優柔不断がすぎようというものだが。まあ、お順と対照させるにはこのくらいでないとならないのかもしれない。そういえば、けっきょくメインテーマである<おぅねぇすてぃ>も消極的にしか果たされていないようにも思う。また、この物語のふたりのすれちがい度から比べると、その後のふたりに関して書かれた末尾の2頁ほどが平穏にすぎるきらいはあるような気はする。あと、「今日の日本人の英語能力のお粗末さ」は、この物語には関係ないと思うがいかが?だいたい、べつに日本人の英語がお粗末なばかりだとも思えないし……。いまだ進取の気性は日本人に健在だと思うよ。(2004/04)

『グイン・サーガ94 永遠への飛翔』 (栗本薫) 感想

あっと驚く展開はいつものことだけれど、この巻の末尾は予測すらしなかった。内容がかなりSF的になっていたこともあるし、またグインという存在の秘密に肉薄するところまでいっていたのでどうなるのかと思っていたのだけれど、うーむ。
今回はランドックというのが何なのか、かなり具体的に表現されています。これについては、グインの故国であるとのことだったのですが、なるほど、これで確定ですね。もうひとつ、ランドックにおけるグインの身分についても触れています。このふたつは、いままでの物語から類推された内容に沿っています。また、この世界の名前も<ソラー星系第三惑星>と出てきますが、これがくせもの。<ソラー星系>というのが<ソル星系>すなわち太陽系のことなのかどうかが微妙なところです。どちらとでもとれますね。微妙なままのほうが面白いですが。
あと、最初にルードの森にグインが出現したのが、古代機械つまりカイザー転移装置によるもので、記憶の喪失がその影響なのだとしましょう。しかし、だとすると、それまでグインはどこにいたのでしょうか?星船の中で冷凍睡眠していた?だとすると何を契機に目覚めたのでしょう?どうもタイミングがすっきりしません。グインが星船ではない場所から転送されてきたと考えたほうがつじつまが合うような気がします。しかし、ならばそれはどこなのか……。やはり、あと6冊くらいでは終わりそうにもないですね(笑)。(2004/04)

『からくりからくさ』 (梨木香歩) 感想

不可思議な感触。祖母の残した古い家に暮らしはじめた蓉子とその友人たち。その家の雰囲気に読んでいる自分も引き込まれそうな気分になってくる。物語の鍵になっている「りかさん」という人形を、ぼくは怖いと思ってしまうのだが、いかがだろうか?人形というのは、ぼくたち人間よりもずっと長い時間を生きている存在で、ゆえにこそ、人間には知覚しえないような何かを内包しているような気がするからだ。その思いは、物語が四人の生い立ちと、それよりの過去に及んだ時、ますます強くなっていった。四人の暮らしが静謐であればあるだけ、そしてその絆が深ければ深いだけ、それをじっと見つめている視線が、ぼくは怖くてたまらない。ああ、きっとこういう読み方は邪道なのだろう。きっと、この頁のこの行のこの表現に、人はこんなふうに感動するに違いない。そう思いながら、行間から立ち上ってくる人形の視線を避けることができないのである。永遠というものを思う時、自分自身の刹那が苦しくなるからであろうか?人形という存在について、改めて考えさせられた物語であった。(2004/04)

『四季 冬』 (森博嗣) 感想

え、そこに行くんですか。あの、えーと。うーん。あれはとりあえず1冊でいいやと思っていたので文庫化を待とうと思ったんだが迷いが生じています。作戦か(笑)?
と読了直後の日記にコメントしている。そうである。まさか、そこにいくとは全然思っていなかったのである。<ネタバレ反転>

ウォーカロン
<反転おわり>……それはつまりそういうことだと考えてよいのだろう。
孤独とは何だろう?意図的には計算しない自らの行動が、他者との接点を持たない状態のことだろうか?意図的に計算しないとはどういう状態だろう?無意識に計算することが人間には可能だろうか?あるいは、計算によって引き出した他者の反応に満足できている状態というのは、自己満足と異なるところがないのであろうか?すべてが計算のうちであれば、計算するもしないも同じではないだろうか?
思うに、孤独でないとは、不完全にしか行えない計算によってとった行動によって、他者から予測不能の反応が返ってくることを言うのであろう。コミニュケーションとはノイズの応酬であるわけだ。すべてが計算のうちにしかない四季は孤独である。いや、そうではないかもしれない。彼女の外側からの観察では、判断できない。ここにおいて語られたことは、彼女は自己完結している存在でしかないということだ。自己完結しているとは、すなわち人間という集団に属さないということだろう。彼女は内側に入ることがけっしてできない観察者である。ぼくは、それを寂しいことだと思う。だが、彼女自身はそうは思っていないのではないだろうか?(2004/03)

『四日間の奇蹟』 (浅倉卓弥) 感想

第1回「このミステリーがすごい!」大賞 受賞作。当然ミステリだと思って読んでいたのですが、読了後に何とも居心地の悪い感じにみまわれてしまいました。第三章の末尾から、物語をどういう方向にもっていこうとしているのかと思い興味を持って読んでいたし、そして何より物語そのものはとても面白かったわけです。しかし、終盤あたりで、ぼくとしてどうしてもはだめでした。こういう事象を奇蹟と言うことができるためには、よほど人生に肯定的でないとだめなのでしょうか?それはないだろう、とぼくは思ってしまうのです。得心できない。いや、ごめんなさい。この本を読んだとき、ぼくはとても疲れていました。疲れていたからこそ、こういういつもなら手を出さないような題名の本を手にとったのだろうと思います。この物語に登場するのは善人ばかりで、自己犠牲を厭わなくて、やさしいです。だから、ぼくはもっと疲れてしまった……。逆説的でしょうか?脳に障害のある少女にピアノを教える青年……というと楽器こそちがいますが『ハルモニア』(篠田節子)を思い出します。あのくらいきつめの展開のほうが、ぼくとしては納得がいくのですよ、きっと。美しすぎる、ほんとうにファンタジーのような物語でした。(2004/03)

『雷桜』 (宇江佐真理) 感想

庄屋の娘が生まれて間もなく何者かにさらわれ、十五年間行方不明に。そして、戻った時には彼女は”狼少女”となっていた……。
この”狼少女”というネーミングが、なんというかしっくりとこない。里の者たちと習俗習慣が通じ合わなくなったというだけで、べつに意志の疎通に困っているわけではないからだ。自然のままに育った少女と、庄屋をとりまく政治のうさんくささを対比させようという狙いであるのだろうが、いろいろと詰め込みすぎではないのかという感じもした。ぼくはこの遊という少女よりも、それを取り巻く人々-とりわけ斉道-のほうに感情移入してしまうのだが、それはぼくが男であるせいであろうか?人間は、遊のようには自由になれない。いや、このように自由であるとはまた何と不自由なことでもあるのだろうか、と考えてしまう。斉道の、そのままの不自由さのほうが、ぼくにはまだしも理解しやすい。ふたりの思いの擦れ違いは、けっして身分や境遇によるのではなく、この自由、すなわち己の気持ちへの正直さによるものだ。己の気持ちに正直になるということは、かくも難しきことなのである。そして、その正直になった結果が、ぼくのような凡人からみれば寂しく思えてしまうのである。もうちょっとだけずるくてもよいのではないか?背景となった自然の美しさが鮮やかであればあるほどにそう感じる。いい物語ではあるが、今までに読んだ宇江佐作品に比べれば、いささか異色の感をぬぐえなかった。(2004/03)

『キャノン姉妹の一年』 (ドロシー・ギルマン)

叔父の遺した湖畔の家で新しい生活をはじめたトレイシーとティナの姉妹。父母の死後、べつべつの親戚に引き取られていたふたりだが……。
<おばちゃまシリーズ>のドロシー・ギルマンの初期作品ということです。Copyrightは1953年になっていますから、相当に前の作品ですね。一時、<自分探し>とか<ほんとうの自分>などという言葉が流行しましたが、この作品を読めばそれがいかに困難なことであるか判るでしょう。また、いかにすばらしいことであるかも同時に判るはずですが、その実現のためにこのような生活に耐えられますか?このような生活というのは、これまた流行の言葉で<スロー・ライフ>とでも言うのでしょうか?正直に言えば、ぼくにはこのようにする自信が持てません。きっと無理でしょう。読みながら、姉妹がそれまでの生活でどんなに追い詰められていたのか、と考えていました。姉のトレイシーの生活などは、考えようによっては誰しもあこがれる類のものですからね。自分を見つめ直すというのはほんとうに難しいことです。(2004/02)

『幻夜』 (東野圭吾) 感想

まずは、物語の発端を冷静に読めない。もちろんそれは阪神大震災を舞台にしているからだ。あの時、このような考えを持ち、このように行動した人間も少なからずいたのであろうか?<いるはずがない>という気持ちとそれを否定する冷めた心がないまぜになるのだ。だから、最初の章はじつに読むのが苦しかった。また、『白夜行』の続編と聞いていたので、ぼくの興味はある一点に偏ったままになってしまった。振り返ってみると、惜しい読み方だったかもしれない。そればかり気にしていると、他に目がいかなくなって、見落としたことも多いであろう。
さて、美冬がこのようにして掴んだ何かに意味はあるのだろうか?意味がない、と言い切れる人間は幸せなのであろう。美冬であれば、意味があるかどうかは問題ではない、と言うかもしれない。悲惨なことだ。読みながら、後半部、美冬の正体を探っていくあたりで、宮部みゆきの『火車』を思い出し、頭の中で引き比べている自分に気づいた。美冬の行動が論理的であればあるだけ納得いかなくなり、何か鏡になるもが欲しかったのだと思う。だが、心情的に納得いかないと思いながら、雅也は精神的に弱すぎるな、と考えている自分がいることに驚いたのも事実だ。美冬にとっては誰でも良かったはずだ。雅也などもっと初期段階で切り捨ててもよい。そこにのみ美冬の人間性を見出せるような気がしないでもないのだが……。「永遠に太陽は求めない。二人の夜が本物ならば。」か……。これは雅也の気持ちを代弁しているのだろうな?問題は、女もそう思っていたかということだ。
全然関係ないのだが、『ジャイアントロボ~地球の静止する日』(横山光輝原作・今川泰宏脚本・水田麻里漫画)に幻夜という登場人物がいた。その父であるフォーグラー博士の台詞にこんなのがあった。「我々の思いはただひとつ。暗闇の恐怖を希望の光で照らし輝かせること。この美しい夜を!それは幻ではない!」
美しい夜を幻だと思うのならば、昼の光もまた同じであろう。どちらが真であるということはないのではないか?(2004/02)


『グイン・サーガ93 熱砂の放浪者』 (栗本薫) 感想

ついに物語は核心の中の核心、ノスフェラスはグル・ヌーへと展開。ここでこう来るか、と唸る。こんなに急展開させたら、案外に100巻きっちりで完結したりして……。いや、まあそれはいくらなんでもないんんだろうが。そして、ノスフェラスといえばこの方、三大魔導師のひとり<北の賢者>ことロカンドロスもふたたび登場。彼の口からじょじょに秘密が語られれはじめる。
と思ったら、これがいいところで終わっているのだよ。ある意味、前巻よりこっちのほうがラストで欲求不満になるかも。中身がSFっぽくなっているのもひさしぶりでいい感じ。後半部で登場する<巨人>などは、ウエルズの『宇宙戦争』で火星人が使っていたあの機械をぼくは思い浮かべるのだが、いかがなもんでしょ?
そして、最後の最後で登場するのは……?(2004/02)

『グイン・サーガ外伝18 アルド・ナリス王子の事件簿1 消えた女官 マルガ離宮殺人事件』 (栗本薫) 感想

書き出してみて改めて思ったけれど、ずいぶん長い題名だ。いや、本題は<消えた女官>だから、正確にいえば副題がつきすぎなのだな。最初に目にした時は土曜ワイドか火曜サスペンスかと思った(笑)。もしかすると、わざとそういう効果を狙っているのだろうか?
さて、題名が示す通り、これはシリーズ内シリーズということになるのだろう。探偵役が少年時代のアルド・ナリスというのは面白い設定だ。一読して思ったのだけれど、この頃はそんなには彼も斜に構えてはいないのだな。ある意味あたりまえなのだろうけれど、なんだか初々しい。ライトなミステリとして読むのももちろんよいのだが、こうした生活が後のナリスの人格形成に及ぼす影響を考えながら読みたいものだね。ファン・サービスな一品と言ってよかろうと思う。
外伝はいつもは解説がついているのがシリーズ慣例なのだが、この巻は作者ご自身のあとがき。無論、追悼の意味もあるのだと思う。物語そのもの、そして、あとがきを読了して、作者がとてもナリスというキャラクタを愛しているのだな、と再確認した思いがする。そして、ぼく自身、こうして年若いナリスに出会えたことが思いの外にうれしかったのである。(2004/02)

『九時から五時までの男』 (スタンリイ・エリン)

本屋で見かけて妙な題名だな、とまずは思った。で、作者の名前を目にする。おお、エリンってあのエリンか?当たりである。アルミスタン羊の『特別料理』の、あのエリンである。あのような奇妙な味わいが文庫で楽しめる。なんとすばらしいじゃありませんか。
・「ブレッシントン計画」 この作品が書かれた年代を思うとき、その先見性に慄然とするものである。同工の作品は、以後あまた存在するが、このようなさらりとしたラストシーンに多くを含んだものはちょっと記憶にない。
・「いつまでもねんねえじゃいられない」 <自分の内にある弱さ>と正面をきって対することができる人間は少ない。そうだ。ある場合においては、弱さは免罪符にはなり得ない。納得いかないことではなるが、むしろ弱いというそのことそのものが、自ら加害者たる要因となるのである。
・「ロバート」 子供は純粋である。純粋であるということは迷いがないということだ。大人の世間知は善くも悪くも不純であり、不純であるからこそ、子供を理解することができないのだ。
・「不当な疑惑」 ある種の人間は精神を休めることができない。休むことは罪悪であり、彼自身を疲弊させるからである。なんというパラドクス。
・「七つの大罪」 最後のオチにはもちろんあっと言わされるのであるが、もしかすると日本人には馴染まないのか?さて、この話を面白いと思う欧米人から日本人がどのように見えているのかは、少なからず不安になる。
・「九時から五時までの男」 大きな仕事をやる人間というのは、とても計画的なものだ。そして、周囲の人間は彼が計画的だなどと露ほどにも思っていないものなのである。仕事はかくありたいものだ。
・「倅の質問」 特別な人間など、そういった意味では存在しない。つまるところ、人間というのはそういうものである。そして、そう認識した時にこそ、悲喜劇の真なる味わいを感じることができるのだ。(2004/01)

『深紅』 (野沢尚) 感想

無理があると思った設定に魅かれて読み始めた。小学校六年生の時に家族をすべて惨殺された娘とその加害者の娘が出会う話?どう展開させるつもりなのか……。事件がなぜ起きたのかが語られる部分を読んでいて、その疑念はますます深まった。これでは救いようがない。救いようがないとぼくは思った。主人公が大学生になって以降が本筋となるのだが、よくできたファンタジーを読んでいるような気にさせられた。ここでこういうふうに思うのだろうかという疑問が常についてまわり、気になって仕方ない。
いや、申し訳ない。貶しているのではないのだ。むしろその逆である。流し読みにできないこの緊迫感は何事なのだという感じ。いちいち一行一行にひっかかって、考え込んでしまう。少しどこかにそれただけで物語が破綻してしまう。もうだめか、もうだめか、という感じ。そのままで破綻させずにラストまで引っ張っていくには、ファンタジーでなければならない。あり得ないだろうという展開が、これだけのリアリティをもって読む者を圧倒する、この驚き。ラストシーンの「回れ右」は、だからファンタジーから現実世界への回帰なのだと思う。(2004/01)

『青山物語1979 郷愁完結編』 (清水義範) 感想

10年を経てついに刊行された『青山物語1971』『青山物語1974スニーカーと文庫本』に続く清水義範の自伝的作品の完結編。主人公で作者の分身である平岡義彦がその後どうなったのか、とても気になっていた読者はぼくだけではあるまい。リアルな清水氏がその後どうされたのかということは『青二才の頃』で先にタネあかしを知ってしまっているわけで、それが物語的にどのように処理されているのかが、読みどころ。
どこまでが事実なんだろうな、などとニヤニヤするのも、この物語に限っては正しい読み方であるように思う。サラリーマンとしては、中盤に出てくる<横メリ>のエピソードがやっぱり身につまされるなあ。事は違えど、みんな同じような経験をしてるんだよね、きっと。あと、作中には初期短編の成立エピソードも出てきて興味深い。前作まではほんとに初期短編だったけど、今回出てくるのは『昭和御前試合』以降なので、読まれた方も多いのではないかな。けっこうさらりと書いてあるけれど、あのようにアイデアを形にするのは並たいていのことではないですよね。
物語の軸になるのはもちろん北原亜美とのエピソードなんだけど、結末を知っている読者としては、どのように処理されているか、ですよね。ううむ。物語的にはこうなりますか。はたしてこれは作者の照れ隠しなのか、こうあればよかったという願望か。いや、じつはこっちが真実で先のエッセイのほうが照れ隠しのフェイクなんていうこともないとは言えませんわな(笑)。いずれにせよ、サラリーマンやりながらも作家になりたかったなあ、などと思ったことが一度でもある人間ならおおいに共感しながら読むことができるでしょう。まあ、それを実現するのは、解説にもあるように、ほんとうに並たいていのことではないのですけど……。(2004/01)

『四季 秋』 (森博嗣) 感想

ふたたび創平と萌絵が牽引役を引き受ける。すべてのはじまりとなった物語の再話あるいは検証。視点を変えるだけで、あの時に感じた鮮やかな驚きがこうも違った色合いを帯びて見えるのであろうか?
「可能か不可能か、という問題ではきっとない。それを可能にする意志が、あるかどうかだ」なんという思考。もちろん、レトリックとしてそのような表現を口にすることは、ふつうの人間にだってできる。しかし、真実そのように考え、それをベースに行動するとすればどうか?それは人間ではない。物事に対するにあたって、たぶん人はそれを第一には考えないのではないか?
思考のトレースとともに、じょじょにほぐれていくふたりの日常。リアルタイムな事件は起こっていないと言っていいだろう。あくまでもふたりの日常をベースに解きほぐされていく過去の事物。「太陽を好きになったか、扇風機を好きになったか、の差です」そう感じられることは、あるいは幸せなのだろう。同じひとりが、太陽になったり扇風機になったりするのが人間だから、そして扇風機も太陽も本質的にはそう変わらないと思うから。ううむ、何を言っておるのだろうな。ふたりには幸せになってほしい。余計なお世話だろうけど。
さて、この物語の最大の疑問は何か?四季の天才性?犀川の無頓着?萌絵の不器用?いや、ぼくの最大の疑問はそこではない。犀川草平は、いったいいつ『巨人の星』を見たのか、ということ(笑)。およそ、大人になってからビデオを借りてまでアニメを見るような人ではない。そして幼少の頃の彼の家にはたして、そのようにTVを見る環境があったのか?ということ。百歩譲って、中学生になってから世津子に『巨人の星』を教えてもらう場面を創造してみても面白いかも。ああ、でも彼、道具は持っていたっけ(笑)。
あと蛇足だけれど、前作まで疑問だったあのことは、たった一言で解決されている。「話題にしにくかったのでは?」少々納得しがたいのではあるが、まあそういうこともあるかもしれない。(2004/01)

『ブラック・キャットIVチェックメイト』 (新井素子) 感想

前作から9年空いての完結。心臓に負担をかけられないため走ることができない怪盗キャット、そのパートナーで虫も殺せぬ殺し屋の黒木、そしてたまたまキャットの目にとまりトリオを結成することになった不器用なすり千秋。三重苦を背負った”ブラック・キャット”だが……。完結編ということで、長らく伏線がひかれていたキャットの本当の目的をテーマに事件は展開します。帯に<伝説のピカレスク・ロマン>ってあるけど、ピカレスク……なんだろうか(笑)。あいかわらずの素子節炸裂。無理があるよなあ、などと思ってしまうところもあったりはするのですが、読んでいて楽しい。やっぱり本を読むのは楽しくなくっちゃなあ、と納得してしまう。最近の重めな新井作品もいいのですが、やっぱり原点はこっちだよな。このシリーズも第13あかねマンションの世界につながっているわけで、これが出たからにはやっぱり続きが気になるというもの。何年か前に短編を見かけたけれど、あれ以降どうなったんだろうなあ。早く本にまとまるといいです。
それにしても、せっかく最新刊が出たのだから、シリーズ全巻並べて、ついでに『星へ行く船』シリーズも並べてフェアなどやってくれればよいのに、と思ってしまうのだが。最近の中高生は新井素子読むのでしょうかね?読まないんんだとすると、それはそれで惜しいと思う。
さすがにこの年齢になって、あんなかわいい表紙の、しかもコバルト文庫を買うのにはとてもとても勇気がいるわけだけれど(笑)、長らく待っていたものなので迷わずに購入しました。いや、店員さんに怪訝な顔はされましたが(笑)。(2003/12)

『後巷説百物語』 (京極夏彦) 感想

『巷説百物語』『続巷説百物語』に続くシリーズ第3弾にして完結編(だと思う)全六編。だと思うというのは、続の時もこれで完結なんだろうな、と思ったから。ないのだろうとは思うのだが、サイドストーリー的に『巷説百物語拾遺』とか出てくれると、とてもとてもうれしいですよね。例によって、カバーはリバーシブル仕様。文庫化するまでは購入はがまんするとおっしゃられる向きも、書店でカバーを裏返してみましょう。あと、読み進んでいくうちに、登場人物の名前がだんだんと京極堂シリーズとつながりはじめるという、なんというか離れ業を体験することもできますが、まあこれは読んでのお楽しみということで。たしか、どこかの雑誌で特集を組んでいたようですが、残念ながら未入手。きっとたくさん見落としているのでしょうが(笑)。
さて、物語は、すでに江戸の頃も一昔の明治十年に始まります。物語の語り手というか回想者は、薬研堀の隠居こと旧北林藩と浅からぬ因縁を持つという一白翁、すなわちこの老人こそがかつての山岡百介なのです。一白は、九星にいう一白でしょうか?九十九庵に住む一白翁で百介?百物語?うーむ。
・「赤えいの話」 人の世に住むということが、ふと怖くなる一編。世の決まり事、あるいは儀礼というものは何を拠に機能しているのかとたまには疑ってみるのもよい。ここに記された<島>とわれわれの住む<国>にいかほどの違いがあるというのだろうか?今現在住んでいる日本ではピンとこないなら、戦前の日本ではどうか?あるいは……。
・「五位の光」 なるほど。ことの遠因はここにあったか。因果が巡るとはまこと哀しきもの。それもこのように複数の事件にかかわっているとは。事がこのようなものであれば、すべてこの時点で解決しているではないか。物事を複雑になさしめるのは、人の執着であることこそ、むべなるかな。
・「風の神」 怪を語ればすなわち怪に至る。シリーズの末尾を飾るにふさわしい百介一世一代の大仕掛け。登場人物は豪華絢爛。そうくるのかとうなりっぱなしです。それにしても、はたして与次郎が物語の終局に見た幻はほんとうに幻なのだろうか?(2003/12)

(追記) 完結じゃなかったです……。『前巷説百物語』が出ています。

『螺旋階段のアリス』 (加納朋子) 感想

連作短篇集。大企業のサラリーマンを辞職して探偵になった男。開業したばかりの事務所を訪ねてきたのは猫を抱いた少女安梨沙だった。
章題を見ていて思ったのだけれど、萩尾望都の『ポーの一族』で、主人公エドガーを題材にした十一枚の絵があって、題名が「イスのふちにすわるランプトン」「イスのまえにたつランプトン」~最後が「ランプトンのいない部屋」いや、だからどうだというのではないけど、ふと思い出したのですよ。
事件はいわゆる日常系ミステリの範疇に入るのでしょう。作毎の謎はなかなかにいい感じです。安心して読み進めることができます。ただ、この安梨沙という少女がいったい誰なのかという謎が明かされる最終話は、何となく興冷めなような感じをおぼえてしまいました。謎は謎のままのほうがいい場合だってあるのにな、というのはミステリを読んでいて、かなりの確率で思ってしまうことなのですが、いかがでしょう?まあ、ぼくの意見はきっと少数派なんでしょうが……。(2003/11)

『クレオパトラの夢』 (恩田陸) 感想

『MAZE』に続く神原恵弥シリーズ第2弾ということだけれど、申し訳ない。前作のことはあんまりおぼえておりません。そんなに印象が濃い作品ではなかったのか?いやストーリーはおぼえているのだが、その神原という登場人物にさっぱり記憶がないのですよ。こんなに濃いキャラクタなのにどうしたことでしょう。前作読み返すべきかも……。それとも記憶に残らない類の濃ささのだろうかなあ。耽美路線が主翼の一端を担っている恩田作品群においては、なんにせよ特殊なキャラだよね。
物語的には<クレオパトラ>の追跡が主軸といえば主軸なのでしょうが、その肝心の<クレオパトラ>ってなんなのさ、ということが引っ張りに引っ張ってなかなか出てこない。もうちょっと、そこのところストレートでもいいのではと思うのだけれどいかが?連載物だったようなので、まあ仕方ないのかもしれませんが、どうも短くすむところを引き伸ばしているような感は否めないかと。あと他の作品でもたびたびそういう表現方法があるのだけれど、例えば五稜郭をわざわざG稜郭というように表現する意図がいまいちわからない。
ちなみに作中の挿話「冷凍みかん」はアンソロジー『異形コレクション12・GOD』に入っている作者自身の作品ですが、こういうインパクトのある掌編のほうが氷に閉ざされた謎という同工のテーマとしては、はるかによくできているとぼくなどは思ってしまいます。(2003/11)

『誰か somebody』 (宮部みゆき) 感想

編集者として働く杉村は、義父である財閥会長の運転手が自転車にひき逃げされ命を落とした事件を調べることになるが……。
あまりいい読後感のする話だとは言えない。人間の裏側ってこんなものなのかもしれないな、と納得してしまいそうな気分になるのがたまらなくいやである。まあ、ストーリー自体はよくある話だとは思うのだが、それを杉村という金銭的にめぐまれていてしかもそれに執着はしておらず家族も和気あいあいという男を主人公に据えているからこそ、この事件の感じがじつにいやなものにしあがったのだろう。説得力があるのだ。杉村というそこらにいそうにない好人物が扱うからこそ、この平凡ともいえる事件にじつにいやな気分にさせられる。面白い悪意の描き方だなと思う。もちろん、宮部氏の計算なのだろうが……。人の心の中すべてがわかるわけじゃないから、ぼくも言うかもしれないな。「杉村さんみたいな恵まれた人に、わたしの気持ちがわかるわけないわ!」とか。けっきょく、この物語の言いたいのはここのところなんだよね?でも杉村にはそう言う登場人物の気持ちが充分よくわかっているわけで。ほんとうに人と人とが判り合うことは難しい。ましてや立場が違うのであれば。問題は、相手の立場に立つというほんの少しの想像力があるのかということ。物語を通読し、お金の有無はいざしらず、できればこのラストのカラオケシーンの側に混じっていたいよな、と感じさせられたら作者の勝ちというところでしょうか。(2003/11)

『四季 夏』 (森博嗣) 感想

そして物語はふりだしに戻る。この場合はS&Mシリーズ直前の時点という意味だが。ある意味謎解きのようであり、ある意味さらなる謎をなげかけられたという感じだ。謎というのは、この場合は四季という少女の人間性についてだが。もっとはっきりと言えば、四季のメンタリティがなにに拠っているのかさっぱりわからない。まあ、わからないように作者が書いているのだと言ってしまえばそれまでなのだが、天才が実在したすべてがらこんな感じになるのだろうとは、ぼくには思えないのだ。裏返して言うならば、ぼくは、わけのわからなさを彼女の天才性に依拠させず個性のせいにしたがっているのかもしれない。
この物語の冒頭にプラトンの言葉がかかげられている。何を言いたいのかは明らかであるね、有名な部分であるし。さすれば完全性とは頭脳には関係がないものであるということか……。そして、四季はそれを許せないのであろうか?それは学習するものではないと思うし訓練で得られるものでもない。ましてや思考の果てに現れるものでもなかろう。基本的に間違っていると思う、そう思うぼくは凡人なのであろう。
あと、シリーズ読者にはお約束。林さんが四季相手に名乗っております。これでやっと裏がとれたわけですね。(2003/11)

『黄金色の祈り』 (西澤保彦) 感想

読了直後の自分のメモにはこうある。「なんてイタイ話なんだ」と。だいたいにして、青春物などというのはどこかしらもどかしくて、イタイものである。できうるならばもう二度と触れずにすませてしまおうと思っていた澱のようなドロドロに、予期せずでくわしてしまうからである。もちろん、いい思い出の部分を心地よく刺激してくれる青春物だってあるにはあるのだが、そちらのほうが珍しいのではないか?だいたいにして明朗で健やかな青春などというドラマの謳い文句のようなものがフィクションであることは、通りすぎてきた者にとっては自明すぎるほど自明なことだ。
さて、本作はといえば、その明朗快活さの対極にあるといっていいだろう。周囲の人間の目ばかり気になり、こんなはずじゃないというお決まりの文句をいやになるほど繰り返す主人公は、あの日のオレそのものではないか。読み進みながらだんだんと鬱な気分になってくるのを自覚せざるを得ない。ミステリと銘打ってあるので作中で事件だって起こるのだが、事件なんてどうでもいいやという思いもしてくる。いや、やがてその事件なんてどうでもいいやという思いもこのオレのエゴイズムにすぎないとストーリーは思い知らせてくれるのだが。
これを書いている今、読了から半年ほどは経っている。冷静になって考えてみれば、どうやらかなりの部分で作者ご本人の体験ともいえるものを、ここまでよく、こういったドロドロしたものに作り上げることができるものだ。しかも、読んでいる最中は怖いもの見たさというか、ほぼ無我夢中であった。なんといえばいいのだろうね、こういう物語を。
「本当の自分」なんてものは探してもそうそう見つかるもんじゃないと思うけど、この物語を読むと歪んだ鏡を見てるようなぞっとした思いにとらわれる。きっと他人から見えている本当の自分とやらはこんな感じなんだろう。それを指摘してくれる人がいないのは不幸なのか幸福なのか???

『ぼくと未来屋の夏』 (はやみねかおる) 感想

ミステリーランド第2回配本。いや、流石に餅は餅屋というか、子供向けの作品を書き慣れている方ですよね。何しろ、うちの上の息子がたった1日で読んでしまったのですから、面白さは請け合いです。
六年生の夏休み、<未来屋>と名乗る猫柳さんに声をかけれれた風太は、町内に伝わる不思議な話の謎にせまります。ううむ。いかにも冒険好きな子供たちが目の色を変えそうなアイテムが散りばめられていて、楽しめますよ。神隠しの森、人喰い小学校、人魚の宝……ぜいたくですね。しかも、それがどこに出かけなくても自分の住む町内にすべてあるんですから、たまりません。こういうところが、もしかしたら自分の住んでいる場所にも何かあるんじゃないかと子供たちに思わせてくれるのでしょうか。こんな夏休みをすごすことができたなら、どんなにいいでしょう。夏休みが大好きだという作者の、楽しく夏休みをすごすためのお手本のような話です。日常だって、<未来屋>の猫柳さんの語る<未来>のようなほんのちょっぴりの想像力のスパイスで、きっとすばらしいものになるに違いありません。そして、夏休みこそは、子供たちにとってその日常を抜け出す最大のチャンスなのです。(2003/11)

『黒蜘蛛島 薬師寺涼子の怪奇事件簿』 (田中芳樹) 感想

シリーズ第5弾。ええと、ノベルズ版は講談社と光文社で交替に出版されることになったのであろうかな。かつては平井和正が『幻魔大戦』で同じようなことをやっていたが、あれだってシリーズは相互補完的とはいえ一応別物だったわけで。こんなふうに、ひとつのシリーズが出版社を交互に出るのってどんな理由さ、といらぬことが気になるなあ。
物語としては安定した面白さ。例によって怪奇な犯罪者(今回は題名通り蜘蛛の怪物です)に対して我らがドラよけお涼&泉田@朴念仁警部補&その他大勢(笑)の繰り広げる問答無用の正義の戦いをたっぷり楽しむことができます。そうだなあ、正義などという言葉を正面に据えるといかにもうさんくさくなってしまいそうなところ、ちっともそういう重苦しさがないのは涼子のつきぬけたキャラクタによるものでしょうな。しかしながら、このままいかにも安定したシリーズになってしまうのもどうかという思いはあって、今回で言えば涼子と泉田の仲がほぼまったく進展しないことには、いつもながらじれったくなります。いや、進展したら話が終わってしまいますが(笑)。今回は<椅子>にすわっただけですものねえ(笑) (2003/11)

『グイン・サーガ92 復活の朝』 (栗本薫) 感想

なるほど。こういう決着になりましたか、グインVSアモン。しかしですよ、ぼくは個人的には思うのですが、グインであれば他に選択できる方法がずいぶんといくつもあったのではないでしょうか?策士であるグインのことです。このようでない決着方法をいくつも考えていたはずではないのかな、と思いませんか?とすれば、あえてこのような解決方法を選んだのには理由があるはずです。その理由というのはぼくにはひとつしか考えられません。すなわち、すぐにはシルヴィアのもとに帰りたくなかった(笑)。いや、冗談事ではなく、シルヴィアのご機嫌のほうが悪魔の公子アモンなどよりも、よほどに御しがたいのではありませんか?
さて、それに対してもうこんな場所に用事はないのだと、早々に帰国を決めたのがイシュトヴァーン。しかしながら、彼には何が待っているというのでしょうね。巻末のイシュトとヨナの別れのシーンが何だかとてもさびしい感じでした。「もう戻れない」そんなふうに悟るのは、誰にとってもとても寂しいことなのだと思います。(2003/10)

『幻日』 (高橋克彦) 感想

・「鬼女の夢」 遠い記憶が何かのはずみに暗転するということはないか?ずっと信じていた何かのほんとうの意味を知ることになるのは幸福か不幸か?その記憶から繋がるすべてに疑義を申し立てられたような気持ちにはならないか?信じてきたことこそが真実なのだと信じたい。
・「ざくろ事件」 そう。知らなければ良かった、そう思うことがぼくにも何度もある。さて、判らないのは、他の人もそうであるのかということだ。作者の記憶にまつわる話を読んでいると、そこがいちばん疑問に感じるところなのだ。何かを忘れてしまえる人がひどくうらやましいと思ってしまう。
・「あいつ」 ほんの少し手を伸ばせば届いたはずであると後になって思うようなことがある。ほんとうに届いたのかどうか、その時にはもう論理的に判断することなどできはしない。ただただ、自分の勇気のなさ意気地のなさを悔やむことになってしまう。こういう話を読むと、そのことに忸怩たる思いがわきあがってくるのである。
・「白い炎」 自伝的連作の中にあって、この編のみが超自然的要素を含んでいるのはどうしてだろう?こういう位置づけで読むと、そこがとても不可思議なことのように思えてしまう。
・「幻日」 現実ではなく幻日。自分中心の自分に都合のよい世界。自分にとって価値あるものが他人にもそうだとうは限らない。たしかに客観的視点は大事なものなのかもしれないが、でもそれだけでも寂しいではないかと思ってしまうのだが……。
・「ぬるま湯」 幻日を抜け出して現実に、という表現にどこかひっかかりをおぼえながら読んだ最終編。これはその現実というぬるま湯から幻日に向かう物語ではないのだろうか?それとも幻日と現実がイコールになったということだろうか?このごに及んでも、好きなことだけできるのであれば幻日でもかまわないではないかと思っているぼくは、きっと間違っているのだろう。(2003/10)

『あなたの人生の物語』 (テッド・チャン) 感想

・「バビロンの塔」 人間とは天に弓を引く動物なのだろうか?何事かの発見あるいは達成に満足のみを得る者は、すなわち傲慢と言われても仕方ないだろうか? 神ありといわば、その意志は人を砕くのにためらいなきものだろうか? 達成に畏れを抱く者こそが敬虔と呼ばれるであろうか? 世界の真実は、それでもいつも敬虔な者を裏切り続けるであろうか?
・「理解」 認識力の拡大……。量的な拡大はけっきょくのところ何の役にも立たないのであろうか?しかしながら、人間が人間であるとは、けっきょく何に依拠するものなのだろう。
・「ゼロで割る」 この最後の一文、この最後の一文の悲しみが判る者はつまるところ主人公と同じように不幸であるのか?何という二律背反。何という二律背反だろう。
・「あなたの人生の物語」 世界が自分の目に見えている通りのものではないと考えることは、実際とても難しいものだ。とりわけ、時間に沿って何らかの経験を回想するような場合には。この物語を読むことでシミュレートできる「人生」というものを考えると、気が狂いそうになるのはぼくだけだろうか?それはぼくの思考が人間的である証拠であろうか?
・「七十二文字」 物事の本質がたった七十二文字に表現し得るものだとすれば、これは恐ろしいことだ……。いや、文字数は関係ないではないか。すでに同じような試みに科学は達したのではなかったか。倫理性とは何かということが常に我々の最大の関心事になるべきなのであろう。
・「地獄とは神の不在なり」 まったくだ。その通り。神が不在である状態が地獄である。ならば神がそこに在る状況こそが天国だ。しかしながら、けっきょくのところ、天国とか地獄とかいうものに何かの意味を見出そうとあがいているのは人間という生き物の自分勝手な都合だということだ。さて、意味がなければならないのかどうかというところが難しいのだが……。
・「顔の美醜について」 美醜失認装置といういうものがあったとして、試してみたいとはあまり思わない……。美しい人を美しいと思うことができる。その程度のなぐさめが人生にはあってもよいだろうと思うのである。(2003/10)

『春風ぞ吹く 代書屋五郎太参る』 (宇江佐真理) 感想

主人公は小普請組で、生活の糧のために代書屋をしている村椿五郎太。先祖が料理茶屋に刀を置き忘れるという不始末をしでかし、彼の家は小普請入り、すなわちお役御免となってしまったわけです。小普請組というのは控役ですから御家人の格式は保たねばなりません。一切の手当てがつくことなく、基本給である家禄のみでそうするのはかなりキツイことなのではないかと思います。
そんな五郎太の唯一の武器は学問。これも飛びぬけて出来るというイメージではなく、努力型の才能であることが読み進むにつれてわかってきます。なんだか同情してしまいます。このあたり、サラリーマンの悲哀と多々通うものがありますよね・・・・・・。連作短篇集ですが、物語はこの五郎太が、代書屋という稼業を通して知り合う人々との交流、妻にと望む幼なじみとの恋模様を軸に、学問を修めるだけではなく人間として成長していく様を描いています。正統派の人情物といった感じで安心して楽しむことができます。(2003/10)

『川の深さは』 (福井晴敏) 感想

「命をかけて守るべき人が君にはいるだろうか」と帯の惹句にあります。うーん、男なら誰だって家族や恋人を命がけで守りたいと思ってるんじゃないでしょうかね。いや、申し訳ない、水を差すようなことを言って。ぼくは無骨な生き方を描いた作品はけっこう好きだし、もちろんそういう意味ではいい話だと思います。でも、ごめんなさい。読んだ時に体調が悪かったのも手伝ってか、いまひとつ乗り切れませんでした。ええと、どう言ったらいいでしょうか。大上段に構えすぎているような、力が入りすぎているような、そんな感じがしたのです。
目の前に流れている川の深さを問う心理テストで情熱度がわかるのだそうですが、その箇所を読んだ瞬間に<もうすぐ口に水が入ってきそうだ>と反射的に思ったぼくは、さて情熱過多な人間でしょうかね?目の前に川が流れています。他の動物はみな泳いで渡りましたが、象だけは一歩一歩川底を確かめながら歩いて渡りました。などという、何が言いたいのか瞭然な例え話を読んで、橋を作るか舟を探すかすればいいじゃないか、などと考える自分がいるのも確かですからね。もし、心理テストの結果通りにぼくが情熱的な人間だとしても、たぶんそのことについては黙っているのでないかと。なにしろ、皮肉屋で通っているもので……。(2003/10)

『まひるの月を追いかけて』 (恩田陸) 感想

奈良を舞台にしたロード・ムービー仕立ての作品。恩田陸のロード・ムービー仕立てというと、やはり『黒と茶の幻想』が思い浮かびますから、さて今度はどんな手法でくるのかなと楽しみに読みました。失踪したらしい異母兄を探してその恋人と旅をする、という感じで話は始まるのですが、これがどんどんと変容していき、半ばすぎまで読んだ時には、ちょっと脈絡なさすぎるんじゃないかと思ってしまいました。連載したからこうなったのでしょうか?一章一章で謎の中心がめまぐるしく変わっていきます。ただ、それでもって飽きさせないのもまた事実で、登場人物たちの会話も旅先の雰囲気もなかなかに楽しむことができます。うーん、でも耽美が嫌いな人にとっては、このラストだと不満が残るかもしれませんね。恩田作品としては、位置づけが中途半端になったのかもしれません。舞台仕立ては『黒と茶の幻想』のようなミステリ仕立てで、登場人物たちの過去を推理していく心理プロセスも面白いのに、味付けは作者の学園物の傾向に似ていると言えばよいでしょうか?ぼくは両方好きなので違和感を感じながらも面白く読めたのですが、後者が苦手な人には多少感情的にみえるかもしれませんし、前者が苦手な人にはまどろっこしい感じがするのではないでしょうか?章題は意味ありげなのですが、内容とぴったりマッチしているとは言いがたいような気もします。「まひるの月」が何を指すのかは、まあ読了した方には言わでもがなのことだと思います……。
ちなみに、研吾の手帳に書いてある話のモトネタは、「愛のサーカス」(別役実?)、「猿の手」(W・W・ジェイコブズ)、「黄金の林檎」(ロシア民話・ストラヴィンスキーの『火の鳥』)、「月のうさぎ」(インド・仏教説話)、「ある母親の物語」(アンデルセン)、「洞穴のロウソクの話」(不明・研吾の創作となっているが……) と思われます。

『もう一人のチャーリイ・ゴードン』 (梶尾真治) 感想

梶尾真治短編傑作選『美亜へ贈る真珠』に続き、ノスタルジー篇です。ロマンチック篇とノスタルジー篇の区分けがいまいち判らないといえば判らないのですがね……。
・「もう一人のチャーリー・ゴードン」 チャーリー・ゴードンというのは言うまでもなく名作『アルジャーノンに花束を』の主人公の名前。大和石(ヤポニウム)の開発を急ぐ研究者の五堂勝は、実験の志願者を募る。その募集に応じた秀克の肉体は若返りはじめるが……。人生に失敗した秀克が息子とのコミニュケーションを取り戻すシーンは、本家『アルジャーノン』でチャーリーが妹に再会する箇所に勝るとも劣らない名場面だと思います。
・「芦屋家の崩壊」 突然、芦屋家に押しかけてきた大量の人々。なぜだかわけのわからぬうちに始まる宴会。そしてその人々の中に……。題名のモトネタはポーの「アッシャー家の崩壊」ですが、あんなに陰気な話ではありません。まさにノスタルジックな感じ。これ、映像化したら面白いだろうなあと思うのですがいかが?
・「夢の神々結社」 突然つながってしまった日本の善隆とンガガ族のゼンタカの心、ふたりの少年は心で話し合う同名結社となるが……。ふたりの少年の心の交流が楽しい一編ですが、少年の日々は甘いばかりではありません。それが苦さを伴ったものであることを忘れずにいたいものです。
・「清太郎出初式」 西暦1900年-明治33年、地球は火星人の来襲を受けた。あまりにも有名なウエルズの『宇宙戦争』を題材に、日本でのその風景を描く佳編……。鳶職を継ぐことをきらって家を飛び出した清太郎が火星人の歩行機械に焼け出された人々との交流を通して自分に目覚めていく様子が味わい深いです。清太郎たちのその後を示すラストの数行はないほうがいいような気もするのですが、映画の『アメリカン・グラフティ』みたいな感じを出したかったのでしょうか?
・「百光年ハネムーン」 巻頭の「もう一人のチャーリー・ゴードン」と呼応する作品ですが、発表はこちらのほうが先なのですね。今やヤポニウム・コンツェルンの会長である五堂勝、多忙な日々を送る彼は宇宙旅行に出ることになるが……。銀婚式、金婚式くらいはまあ知っていますが、こんなに節目節目に呼び名があるとは……。75周年で金剛石婚式ですか、気が遠くなりそうです。で、100周年が大和石婚式というのはもちろんフィクションなのですが、そのすごし方としてこの中で語られているのは、なかなか興味深いです。宇宙旅行をそんなふうに使ってしまうとは、なかなか考えつくものじゃないと思います。(2003/09)



『四季 春』 (森博嗣) 感想

こういう思わせぶりな題名をつけておいて、真賀田四季とは関係ないかもしれないなどと『虚空の逆マトリクス』の感想末尾に書きましたが、さすがにそんなことはなくて、四季が八歳の頃のお話。時間的にはすなわち犀川&萌絵シリーズよりも以前に位置します。シリーズ四部作ということで、春-夏-秋-冬と進むはず。例によって時間そのものよりも登場人物の位置関係とか、そういうもののほうが気になるといえば気になります。四季が登場し、各務亜樹良が登場し、紅子が登場する。そして、エピローグにはこれからのすべてを予感させるかのように、西之園博士とその娘が。S&MとVを通読してきた読者には自明のことだろうけれど、前作までに読者に仕掛けられた罠が、登場人物たちの見かけ年齢や発言によって、証明された形になっている。とりわけ紅子発言についてはそうだね。
さて、四季は確かに天才かもしれないけれど、ほんとうに天才といったものが存在するとして、彼女のように思考し、行動するであろうかな?それは前々から疑問ではあるのだよ。そう行動しないとは言えないということをもって、彼女の行動等を肯定することは、ぼくにはどうやらできそうにもない。凡人だからか?物語の中心に其志雄を据えた据えたことは、そういう意味では必然かなのかもしれない。すべてが四季のペースで進むと息が詰まるような感じもしなくはない。
彼女の性格におけるある種の破綻が、この後物語りにどう影響を及ぼしていくことになるのかということには興味が尽きない。しかしあれだな。そういう興味をおぼえること自体、シリーズ読者であるからで、独立した話として読んだ場合はどうなのかというのが最早冷静には判断できなくなっているのだが……。(2003/09)

『余寒の雪』 (宇江佐真理) 感想

・「紫陽花」 苦界から抜けることなく死んだ梅ケ枝。今は大店の内儀になっているお直は、昔のよしみでその出棺に立ち会うことになるが……。無骨な感じがするお直の亭主と酸いも甘いも噛み分けた吉原出のお直の立場がラストでふっと反転する様が面白いです。
・「あさきゆめみし」 何をやっても夢中になるということがなかった紫屋の長男正太郎がはじめて夢中になったのは、女浄瑠璃語りの京駒だった……。たしかに「夢はいつかは覚める」ものだろうが、いや何事にも夢中にはなってみるもんです。それで男がひとり仕上がるのであれば、こんなに安いものもないでしょう。
・「藤尾の局」 備前屋の後添いお梅は、生さぬ仲のふたりの息子とうまくいっていない。狼藉に及ぶ息子たちに対して怒ることをしない母親を不審に感じる娘の利緒に、お梅はお城に「藤尾の局」として奉公していた時の思い出を話すのだった……。たしかに、つまるところ「改心するか、放蕩に身を持ち崩したまま終わりになるか。いずれも当人次第」なのでしょう。親にできることといえば、親たるの心意気を見せることくらいしかありますまい。
・「梅匂う」 美人水を扱う小間物屋の主人助松が思いをかけたのは、見世物小屋で女力持ちを演じる大滝太夫だった……。「女は変わり者は駄目だ。並でなけりゃあな」というのが登場人物のひとりであるご隠居の言葉ですが、ラスト数ページの大滝はほんとうにごく普通の、そう意地悪く言えば自分勝手な女性にすぎません。助松も大滝もそれでいいのであれば、もちろんこれでよいのです。
・「余寒の雪」 伊達藩の御殿女中に武芸を指南する女剣士になることを夢見る知佐だが、親戚たちは彼女を江戸の北町奉行所で同心を勤める鶴見の後添いにしようと目論む……。知佐と鶴見の一子松之丞との交流が楽しい。つまるところそういう母性に訴えかけた結末になるのだろうと思って読んでいたら、ラストに思いもかけずほんとうに真剣勝負となったので少々驚いた。この勝負、どちらの勝ちであるかは言うまでもないことであろう。(2003/09)

『蛇行する川のほとり』 (恩田陸) 感想

全3巻の書き下ろし。実際に出版されたのは2002年の12月~2003年の8月にかけて4か月に1冊のペース。以前、『上と外』では待たされたりしましたので、3冊出揃ったところでK谷さんに借りるという、まあちょっとずるいやりかたにしました。
物語は3部構成。1巻に1部ずつで、語り手も毬子、芳野、真魚子というように変わっていく。演劇で使う舞台背景を描くために「船着場のある家」に集まるという設定ではあるが、一種の学園物であることは間違いない。恩田陸のお家芸といったところ。語り口はそうですね『麦の海に沈む果実』のような感じ。登場人物の誰もがちょっと不安定で、しかも耽美的。「今はもうない、あの蛇行する川のほとりでの少女たちの日々」これを耽美的に語るには、登場人物たちはやはり少年少女でなければならないのでしょうね。縦軸となる過去の事件の謎解きという意味においては、必ずしも時間的にここから始めなければならないという気はしないのですが……。彼女たちがもっと幼ければ、あるいはもっと大人であったなら、こういう結末にはならないでしょう。夢のようなある時間を切り取って、そこに一枚の絵のような情景を描いてみせる。学園物というのはそういうものだと思います。少女の時間の始まりと終わり、あるいは少年の時間の始まりと終わり。耽美であるということは、そこに何か酷薄な内実が潜在しているということと同義でもあるのです。「今、あなただけに」と始められる物語を、自分自身のものとして受け止め、そして秘密を守ることができるのか?それが耽美な物語に参加できるかどうかの資格でなのではなかろうかと思われてなりません。(2003/09)

※Amazonリンクは文庫版で全1巻です。

『グイン・サーガ91 魔宮の攻防』 (栗本薫) 感想

ついに魔宮とまで呼ばれてしまうクリスタル・パレス(笑)。アモンとグインの直接対決です。前巻の最後に降ってきた生首はいったい誰のなんだろうとけっこうわくわくしていたのですが、グラチーだったというのはがっかりかなと。もうちょっと凝った展開をみせるのかと思っていたので……。
さて、この巻の末尾では新たに物語のキーになるエピソードがひとつ出てきておりますね。アレクサンドロスがほんとうは何者であったのかというのは、けっこう気になるところではありませんか?それにしても、この長大な物語、終わってみたらすべての謎がすっきりと解き明かされているのでしょうか?ぼくにはどうも、最近はそうは思われなくなってきているのですよ。もちろん、物語のキーになるランドックやアウラの謎のいくばくかはそのうち明かされるのでしょうが、謎な部分がけっこう残るのではないでしょうかね。まあ、そういった解き明かされない部分を自分で想像することもまた、物語を読む楽しみではありますが。(2003/08)

『陰摩羅鬼の瑕』 (京極夏彦) 感想

お待ちかねの京極堂シリーズ最新刊である。前回の長編『塗仏の宴 宴の始末』から5年が経過している。まあ、京極堂は前作『今昔続百鬼-雲』でも出演していることはしているのだが……。リアルタイムな読者はまさに首を長くして待っていたのではないだろうか?と、どこのサイトをのぞいてもここまではご同様なコメント。でも、そのあとの毀誉褒貶はなんなんだろうなあ。いや、そんなに他人様の感想を読み漁っているわけではないので、断言してしまっていいほど意見がふたつに分かれているとは言い難いのだけれど……。
まず、ミステリ系のサイトの感想を読むと、要するに犯人がかなり早い段階で(ミステリを読みなれた)読者にわかってしまうということにかなりの不満があるらしい。筋がこのシリーズにしてはシンプルすぎるというような意見もこれに同じであろう。筋のシンプルさにもかかわらず、もたもたしている(笑)ようにも読めるらしい。あそこまで枚数をかけないといけないのはどうしてか、とかがそうだ。逆にべたぼめな方。これはミステリ読みではなくて、京極ファンというかそういう人に多いのだろうか?ただもう、あの薀蓄(今回は何と儒学)を果てしなく読んでいたいという人も中にはいらっしゃるようで、これはこれでどうかと思う。いや、ごめん。それでもって、ミステリファンと京極ファンが乖離してるとかそういうことを言いたいわけではない。ただ、どちらも不可思議な評価ではあると思うだけなのだ。
ぼくはまず、ただシンプルに怖いと思う。何が怖いかって?この四度にわたって花嫁を失い、今あらたに五度目の婚礼を控えている伯爵の思考過程が手に取るようにわかってしまいそうになるのが怖いのである。思わず、納得しそうになっている。そう、伯爵はきわめて素直な思考を行う人物だ。例えば、関口巽にとってはこの素直さが怖ろしくてたまらないはずである。伯爵はそう考えて当然だからそう考えているだけなのだ。関口は口ごもり、反論できずに時間だけがすぎてしまう。その怖さは、もっと言えば、関口が世間一般の人々に抱くものと同種のものである。ただ、ベクトルがずれているだけだ。世間に対し、関口は口ごもり自分の意見を述べることができない。関口に感情移入できるかどうかは、だから今回の場合は物語を読み解く上でかなり大きな要素になるのではないか?関口の判っているのだが口に出すことができないあの感じを追体験できれば、かなり面白く読めるはずだ。
あと、もたもたした感じで物語が進行するのは、関口が伯爵のことを理解したくないからなのでないかという気がぼくにはとてもするのだ。冒頭部だけで、じつは関口は真相に至っている。そういう意味では、この物語の<謎>は花嫁連続殺人などではもちろんない。明言されないまでも効果的に謎とその解答は冒頭に示されてしまう。あと読者にできるのは、その解答の証明がいかになされるかを楽しむことのみである。この構造、変形してはいるがコロンボ的ではないか?歯切れが悪く要領を得ないコロンボである。そういうやり方については好みが分かれるであろうから、賛否分かれてしまったのかもしれないな、などと愚考する次第。
また、枝葉としては、関口が作家として意外に(失礼)評価されているらしいことが判り興味深い。作中では、かの大作家との邂逅シーンがあったりして、関口ファンなぼくとしてはうれしい限り。作中作「獨弔」は妙な言い方かもしれないが夢枕獏ばりの幻想編で、読ませる。関口巽作品集のようなものがシリーズ番外編として出ないものだろうかと思うが無理だろうかな……。
それにしても、このシリーズに対する感想で、京極堂の信奉者とか榎木津に思い入れがある方とかは数多く見受けられるのだが、関口ファンという方にはあまり出会ったことがない。ぼくの読み方は上記の感想も含めてどこかやっぱりおかしいのだろうかね……。(2003/08)

『くらのかみ』 (小野不由美) 感想

「かつて子どもだったあなたと少年少女のための”ミステリーランド”」第一回配本の一冊。<宴の支度は整いました>との煽り文句は京極夏彦の『塗仏の宴 宴の支度』からだろうかな?<ぬらりひょん>と<座敷童子>で妖怪つながり?
夏休み、本家の跡継ぎを決めるために集まった大人たち。子供たちがそこではじめたゲームは「四人あそび」だった。部屋の四隅にひとりずつが立ち、次の角へと動いていき、その隅に立っている人の背中にふれるというもの。つまり、四人目の子供が移動した時には移動先には誰もいないはずで、ゲームは終わってしまうはずなのだが……。というミステリアスな冒頭。いつの間にか増えたひとりが座敷童子というわけ。田舎の家とかに行った時に、なんだか妙に冒険心をくすぐられることってありませんか?ふだんとはちがった古びた家、夜ともなれば都会よりは暗い感じのする道、そして久しぶりに会う従兄弟たち。そう、そんな感じの物語です。ぼくの年齢で読むとちょっと物足りない感じがしてしまうところもあるのですが、ターゲットにしている年齢からすればこうなるのでしょう。できうれば、子供にもどって読みたかったな……。
難を言えば、定価が2100円とかなり高いこと。ターゲットにしている年齢層は小学校高学年くらいなのだろうかな?と思うのだけれど、はたして彼らが自分で購入するだろうかなあと心配にはなります。もちろん、装丁は凝っているし、『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる著)のコロボックルの絵でおなじみの村上勉さんの挿絵もすばらしい、と本好きにはたまらない感じなので高めになるのは仕方なかろうな、とも思うのだけれど……。この装丁は、早い時期から子供たちに本物の書物にふれてもらおうという配慮なのですよね?本好きな子ならばこの値段でも買うかな?でも冊数を集めるのは無理かもと思ったり。ここは学校の図書室にぜひがんばってもらって、小中学校で借りて自由に読めるようにしてほしいですね。昔、本を読み出したきっかけののひとつはやはり学校で借り出したルパンとか乱歩とかSFの少年少女向けシリーズだったと思うのですよ。
あと、本屋さんでこの本が置いてある場所にもちょっと不満が……。ミステリのハードカバーのコーナーとか小野不由美の特設コーナーに置くのもまあ悪いとはいいませんが、ここはやはり青い鳥文庫のコーナにも置くとかもしてほしいのですよね。こんな面白いシリーズが出てるんだよという子供たちへのアピールもとても大事です。(2003/08)

『美亜へ贈る真珠』 (梶尾真治) 感想

すべて既読なのだから、今さら買わなくてもと思いつつ、やっぱり買ってしまいました。「ロマンチック篇」ということですが、どうやら題名に女性の名前が入っている作品で統一したのかな?ロマンチックがテーマならここには「百光年ハネムーン」他収録されていてしかるべき作品が他にも多々あると思うし……。

・「美亜へ贈る真珠」 何度読み返してみても美しい作品です。言わずと知れた作者のデビュー作。生きたタイムカプセルの中で他人とは異なった時間をすごす男。そして何年も彼を見守り続ける美亜という女性。もはや彼女と言葉を交わすことすらできない男が贈る真珠とは……。

・「梨湖という虚像」 この作品に登場するコンピュータの名前はフェッセンデン。オールド・ファンには説明不要でしょうが、エドモント・ハミルトンの『フェッセンデンの宇宙』よりのネーミング。コンピュータのディスプレイの中の恋人というイメージは悲しげなのですが、この作品を読むと懐かしの特撮作品『宇宙鉄人キョーダイン』を思い出してしまうぼくは、いけないファンでしょうか?

・「玲子の箱宇宙」 箱宇宙というのは箱庭の宇宙バージョン。箱の中で本物の宇宙。結婚祝いに箱宇宙を手に入れた玲子はそれに夢中になってしまい……。これ、ラストを読み返すたびに、箱の贈り主はいったい誰だったんだろうと不思議に思うのですが・・・・・・。

・「”ヒト”はかつて尼那を……」 作者の短編でぼくがいちばん好きなのがこの作品です。異星人の侵略によりすでに滅んでしまった地球の<保護区>で見世物になっている”ヒト”。異星人の少年は父親に連れられてきた保護区でヒトと出会い、話をするようになりますが・・・・・・。ヒトが異星人の少年に自分がかつて愛していた尼那(ニイナ)という女性のことを話してきかせますが……。淡々とした語りとふたりの心の交流が、とてもすばらしいです。

・「時尼に関する覚え書」 幼い頃に出会った不思議な女性時尼(じにい)は、その後ヤスヒトの人生に大きくかかわってくることに……。これもいい感じの作品です。遡時人という設定が面白いですね。


『新耳袋 第一夜・第二夜・第三夜・第四夜』 (木原浩勝 中山市朗) 感想

実話というのはどうにも苦手です。ホラー映画は何ともないのに、恐怖体験の再現フィルムは怖ろしくて仕方ないという……。事実は小説よりも奇なり、などと申しますがまったくその通り。まあ、恐怖体験ものというのは、それなりの解釈がされているのが常であるし、再現フィルムとか心霊写真もほんとうかうそかは知りませんが、お祓い済みですという前提だからまだ見ることもできるのかも。ところが、この『新耳袋』、収録にあたって極力この解釈というやつを退けたそうで、このことが凡百の恐怖体験談とは一線を画する仕上がりとなっています。題名は根岸鎮衛の奇談収集『耳袋』によるもの。
さて、トラウマになるような異形の者というのは人それぞれでありましょうが、ぼくにとってはかの<くだん>という牛頭人身の者は強烈なイメージが残っています。はじめてこの異形に触れたのは小松左京の「くだんのはは」。紅い京鹿子の着物で顔のみが牛の少女、その瞳にはあの草食獣のどかか悲しげな雰囲気が漂っている。第一夜・第十二章は、この<くだん>に関わる物語です。解けない謎への問いかけが、無気味で仕方ありません。
そしてもうひとつ。ぼくには忘れられない映像があります。小学生の頃、やはり再現フィルムというやつで見たのですが、それはある建物です。いや、何ということはない単なる小屋のようなところなのですが……そこに足を踏み入れると、逃げられなくなるというのです。何度その小屋を脱出しても、いつの間にか戻ってきてしまう草むらの中の一軒の小屋……。無気味な小屋のイメージが妙に怖いのですよね。第四夜の最終章「山の牧場」を読んで、ぼくはそのときの気分を生々しく思い出しましたよ。幽霊も怪物も怪奇現象も描かれないのに妙にヤバい感じのするこの話、、ホラーの大家菊池秀行氏が解説で「読むな」とまでおっしゃっておりますが、あなたはどう思われました?




『リプレイ』 (ケン・グリムウッド) 感想

人生を何度もやり直すなんてとんでもないぞ、というのが個人的な思い。たとえ記憶を保持したままでのやり直しだとしても、意識してやらないことには、何ともままならぬ状況に追い込まれるのは必至。だって常に、前はこうだったのに今度はどうしてこうなったんだろうという思いにつきまとわれるに違いないものね。リセットするとしたらどこからがいいだろうか、などと考えてみたけれど、これが決まらない。まあ、たいていの人はそうではないだろうかな。やり直すということは、そこから先築きあげてきたものも、すべて無くなってしまうということだものね。はたして、今の人生のすべてと引き換えにしても取り戻したい何かがあるかどうか、というところが焦点なんだろうね。
この人生リセットテーマのSFで最初に読んだのは、さて何だったろうか?短編だとマッキントッシュの「第十時ラウンド」(『魔女も恋をする』(集英社文庫) 所収 )あたり。これの主人公は失った恋人を取り戻すために人生を十度もやり直すのだった。自然、このやり直しテーマは、多元宇宙ものになっていくのだよな。平井和正の「次元を駆ける恋」(『虎は暗闇より』(角川文庫)所収)もそうか。梶尾真治の『クロノス・ジョウンターの伝説』とか。コミックスなら藤子・F・不二雄の「分岐点」(『気楽に殺ろうよ』(小学館文庫)所収)とか「あのバカは荒野をめざす」(『箱舟はいっぱい』(小学館文庫)所収)とか。失った恋人や子供を取り戻すために時を遡る話が多いよね。
この『リプレイ』の主人公は、そういう状況に、望んでもいないのに投げ込まれる。それも何度も何度も。この何度も何度もというところが、この物語の独特の味になっているのだな。たいていこのテーマのSFだと、やり直しても成功しないからもう一度という意味においての何度もなんだけど、この物語は違う。成功しようが失敗しようが、それまでの努力はすべて水泡に帰してしまうのだ。なんて理不尽な……。その理不尽なやり直しの中で人生の意味を考え、何かを見出していくのだが・・・・・・。この物語を原案に『リプレイJ』(今泉伸二)というコミックスが今「Bunch」という雑誌に連載されているけれど、これは原作とちがって、今のところやり直し直球勝負中。まあ、コミックスはコミックスでいい話なんで毎週楽しみに読んでいるんだが、原作のこの何ともいえない暗さは、やっぱり捨てがたいものがあると思うぞ。(2003/07)





『八月の博物館』 (瀬名秀明) 感想

ふたつ断っておかねばなるまい。まず、ぼくは氏の出世作である『パラサイト・イブ』も『BRAIN VALLEY』も現時点では未読であるということ。そしてもうひとつは、このページの読者であるならばよくご存知のことであるが、ぼくも少々<書く>人間であるということである。前者についていえば、もし氏の代表的とされる作風とこの物語の間に何らかの隔たりがあるのだとしても、感知しえないということである。後者について言えば、この物語が<物語を書くこと>あるいは<物語を読むこと>をテーマにしている以上、虚心ではいられないということだ。
さて、その上であえて言おう。すばらしい。どうすばらしいというのか?ぼくはこのHPを本来は物語を書くためにはじめたのだが思うにまかせず、掌編を書くことも1997年以降中断してしまっていた。その怠け者に、今さらながらに新作を書く気力を与えてしまったほどである。
物語を綴ることに意味を見出そうとする作家、エジプトにすべてをささげた19世紀の考古学者、そして小学校最後の夏休みをすごす少年。彼らが出会う時間と場所は<八月>、そして<博物館>。これはどちらも特別な時空間を示すキーワードなのだ。この物語は瀬名版の『夏への扉』と言ってよいだろう。あの夏、と言えばだれかが「そうだ、あの夏だね」と頷いてくれるだろうか?たぶん人それぞれに夏の思い出があるのあるのだろうし、その色合いによって返ってくる答えは違うだろう。ぼくのそれは主人公の少年トオルとは違って小学校六年生ではない。もう1~2年は後のことになる。でも、<博物館>に関する特別な経験を除けば、それは何とよく似ていることだろう。長い休みのうち何日かだけ開いていた図書室で回っていた扇風機、投稿するために初めて万年筆で書いた原稿用紙、ワープロなんてまだない時代に学校のガリ版で作った同人誌、原稿用紙を綴じただけのこの世に一冊しかない雑誌。たぶん、物語を綴る者であれば、年齢の前後はあっても皆トオルと同じような経験があるのではないかと思う。啓太の顔をいっしょに同人誌を作った誰かに置き換えれば、そして鷲巣の顔をその特別な夏に作った特別な本を読んでくれた女の子に置き換えてみれば。あの頃の夏、ぼくたちはトオルと同じように<博物館>の幻影を追ってはいなかったか?具体的なガイド役としての美宇こそいなかったが、それでも何か大いなるものに導かれるように、ぼくらは何かを追っていたはずである。
読了してから書くことはやはりすばらしいことだなどと、あらためて当たり前のことを痛感してしまった。物語とは何か、というそれがわからないから書くしかないのである。プロ作家でさえこんなに呻吟しているのである(作中の登場人物である作家には、作者自身が色濃く投影されていることは論を待たないであろう)。ぼくのごときアマチュアが何の労苦もなく物語を書けるはずもないのだ。だから、あの夏を取り戻すために、あるいはあの夏にふたたび追いつくために、(時間がかかろうと)ぼくは何かを書き続けれるにちがいない。(2003/07)

『仮面ライダーディケイド 第16話 警告:カブト暴走中』 感想

『仮面ライダーディケイド 第16話 警告:カブト暴走中』 を観ました。

「世の中には慌てて飲み込んじゃいけないものが2つある。テレビの言うことと、お正月のお餅だ」 天堂のおばあちゃん登場!いいねえ。
ワームの擬態した士に、クウガのペガサスフォームと555のアクセルフォームによる対クロックアップ戦闘と、特撮的にも見所たっぷり。そしてとどめは何といっても ATTACK RIDE "ORE SANJOU" と "KOTAEWA KIITE NAI"ですな。あの役立たずども(笑)

それにしても、ザビーになっているソウはほんとうにマユの兄なのか?矢車想も天堂総司も略せばソウであることに変わりはない。姓が弟切になってるのが微妙。<花言葉は、「復讐」>なんてな……(笑)。

2009/05/08

『必殺仕事人2009 第15話 昔の女』 感想

『必殺仕事人2009 第15話 昔の女』を観ました。
21時のドラマにしては、艶っぽい展開に驚きましたよ。涼次というか松岡昌弘さんのファンの方はさぞヤキモキしたのではないでしょうか?前回の予告にもあった、あのシーンがまさか冒頭だとは……。
昔、縁があった女であろうが、それが仕事であれば殺る。いや、殺るために仕事にせねばならぬのですね。「今回の仕事はおめえにはやらねえよ」と言われながら、抗弁することなく金を取る。そして、ためらいなく「本当の姿」を昔の女に晒す。昔のハードな必殺を思い出しました。
思い出すといえば、この話を観て池波正太郎氏の『仕掛人 藤枝梅安』の第1話「おんなごろし」を思い出しました。理由は違うけれど、昔、縁のあった女という点が共通するからでしょうか。読み返そうと思います。

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