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2009年11月の29件の投稿

2009/11/30

『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』 記念で旧作劇場版のDVDが安く…

『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』が12月12日に公開ってことで、旧作のDVDが安くで出ている。劇場公開4作に加えて、TVスペシャルの「新たなる旅立ち」か。こうなると、TVシリーズも改めて観たいと思うなあ。
復活篇の設定では、古代進が38歳になっているのだな。以前に出た松本零士の『新宇宙戦艦ヤマト』では、古代進32世という、かなり無理矢理な設定だったが……。





2009/11/26

『深夜食堂 第7話 タマゴサンド』 感想

深夜食堂 第7話 タマゴサンドを観ました。
リサは駆け出しのタレント。早朝に深夜食堂で出会った中島にタマゴサンドを分けてもらってから、仕事が好調に転じる。お互いを意識している二人だが、すれちがいが続き……。
「現実は映画のようにはいかない」という台詞がきびしい。でも、さよならを言いにくるような女性に惚れられたことを自慢に思え、とマスター。「自分が本気で惚れた女を安く見るんじゃないよ」とも。
そうだな。そうかもしれない。でも、それが中島の心の一部となるには、もっと時間が必要だな。「住む世界」がどうのこうのというのは、若者のたわごとのように思えるのだ。ある意味、去られても当然では?
「愛してその人を得ることは最上である。愛してその人を失うことはその次によい」はサッカリーの言葉でしたか?恋愛ってそういうものだと思う。もっと大人の男になれ、中島!とエールを送りたい。

2009/11/24

姫路好古園 紅葉会

今年は近場で、ということで、姫路好古園で紅葉を観てきました。この庭を観ると、『暴れん坊将軍』を観たくなるなあ。吉宗の気分で散歩してみるもよし。29日までは「紅葉会」だそうです。

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2009/11/19

『深夜食堂 第6話 カツ丼』 感想

深夜食堂 第6話 カツ丼を観ました。
試合に勝つとカツ丼を食べることにしているボクサーのカッちゃんは、深夜食堂でアケミ・マユの母娘に出会う。夫を亡くしてひとりで娘を育てているアケミにひかれていくカッちゃん。勝てば次はタイトルマッチという試合に集中するために、仕事もやめてしまう。勝ってプロポーズするのだと言うのだが……。

こういう展開だと試合には勝てないのがお約束か……。そして、店のカウンターに顔を揃えた三人に出された料理はカツ丼ではなくて……いい話だった。マユ役の桑島真里乃が元気あってよいですね。深夜食堂の暗さとミスマッチなのに、不思議に違和感がありません。この俳優さんは、『ちりとてちん』でヒロインの少女時代を演じておられましたよね。

2009/11/05

『深夜食堂 第4話 ポテトサラダ』 感想

深夜食堂 第4話 ポテトサラダを観ました。
ポテトサラダを必ずおかわりする客は、AV男優のエレクト大木(風間トオル)だった。店の客である田中は、大木に弟子入りするが、初めての撮影を控えた夜、母が倒れたことを知る。撮影を優先しようとする田中に、大木は家に帰ってやるように話すのだった。大木には、妹の結婚式に出ることを反対する母親に遠慮し、ずっと実家に戻っていないという事情があった。田中が故郷から東京に戻ると大木の姿は見当たらず……。

親孝行とAV男優という、なにげにミスマッチな部分が妙にしんみりしていい感じ。ポテトサラダは母の味だったのですね。
風樹の嘆などと申しますが、まったく考えさせられます。「木静かならんと欲すれど風止まず」。仕事の自由が効きそうもない年齢に、そういうことは起こるのでしょうね……。

2009/11/04

13周年ありがとうございます

 2009年11月4日をもって<書庫の彷徨人>は、開設満13年、14年目に突入いたします。
 皆様の日頃のご愛顧に心より感謝いたします。あいかわらず、いいかげんな更新ペースと内容ですが、お暇な時にでもお寄り下さいませ。
 これからも、よろしくお願い申し上げます。

2009/11/03

Kwaidan 第10夜・「エレベータ」

今オレが住んでいるマンションのエレベータは、なぜかいつも2階でいったん扉が開くのだった。昇りの時も下りの時もそうだ。ただ、だれかが乗り合わせている時は起こらず、オレひとりの時に限ってそうなるのだ。急いでいる時などには、かなりイライラしてしまう。
「急いでるんだよ、早く閉まれ」と言いながら、「閉」のボタンを連打してみるのだが、たっぷりと30秒以上はそのままだ。まるで、誰かが乗り込むのを待っているように。

その日も、朝、ぎりぎりで部屋を飛び出した。エレベータが、やけにゆっくりと動いているように思える。下降するエレベータは、いつものごとく2階で停止したが、どうせ誰も乗り込んでこないのだろうと「閉」のボタンに手をかけて待っていたら、ちがっていた。白いワンピースを着た細面の美人が、ゆっくりとした動作で乗り込んできたのだ。「こんな美人、住んでいたっけ?」と思いはするが、もちろん住人すべてを把握しているわけではない。
1階に着くと、くだんの美人は「開」ボタンを押さえて、お先にどうぞという素振り。急いでいたので、遠慮なく先に降りさせてもらう。まったく我ながら紳士的とは言えないな、と思いながら。すると、背中から、はなやかな感じの声が追いかけてきた。「今日はボタンを何度も押さなかったのね」と。振り返ると、扉はすーっと閉まるところ。かの美人は降りてこなかったのだ。

それからだ。エレベータが2階で停止すると、オレは「開」ボタンを押して、しばらく経ってから扉を閉じることにしている。たとえ見えないにせよ、ほんのしばらくの間、美人とふたりきりでいるのだと思えば、悪い気はしないではないか。

Kwaidan 第9夜・「定食屋」

 仕事をおえて、飯を食いにいこうと営業の若者に声をかけると「だって、また例の店をさがすんでしょう?」と、あからさまにいやな顔をされた。
 さがすもなにも、この辺鄙な山村にある工場に一人で赴任してきてから、ずっと通っている定食屋なのだ。なつかしい感じのする味つけが、単身赴任の心を癒す。他の勤務者は近在の者なので、晩飯はひとりそこで食うのが習慣だ。だが、タイミングが悪いのか、月に一度本社から打ち合わせにやってくる営業の若者を連れていくたびに、山間を抜ける県道の横にポツンとあるその店は、灯りをともしていない。街灯もない道だから、夜遅くともなれば、店の場所だってよくわからなくなるのである。
 車で一時間以上もかかる街のホテルに営業の若者が引きあげてしまってから、私はひとり、自転車ででかけた。くすんだ感じの白い暖簾が灯りに浮き出ている。私には、分相応の店だという気がする。
 さばみそ定食をたのむと、ゆっくりとほおばる。慣れない仕事の毎日で、唯一ゆっくりとできる時間だ。
 店にはいつも客が少ない。店の親父をのぞいては、いつもスポーツ新聞を読んでいる中年男だけが顔なじみだ。新聞には紙面の半分を埋めるくらいの大きさの文字で、野球の記事が踊っている。せめて野球中継を見る趣味でもあれば、男と話も合うのだろうが、あいにくと、そちらも不調法だ。
 「V9達成近し!」「ON砲快進撃」
 ずっと工場にこもって仕事ばかりでは、世間には疎くなる一方だ。どのチームの連覇なのか、往年の名選手たちと同じように呼ばれるのが誰なのかも判らない。
 少しぼけていて、千円札や五百円玉ではだめだという親父に今日も百円玉だけで勘定を払いながら、いつかあの営業の若者を連れて来てやれるといいな、と考えた。

第7回ビーケーワン怪談大賞応募作


Kwaidan 第8夜・「石碑の上の男」

 「水をいっぱいもらえないか?」
 小学5年の夏休み、せみ採りに行った神社で頭の上からそう声をかけられて驚いた。何かがのどに引っかかるような、ぶつぶつと途切れるような口調だ。
 見上げると、8月も終わりに近づいたというのに、まだ照りつけるような太陽を背にして、黒々とした影が私を見据えていた。
 いや、逆光で黒いわけじゃない。黒い上下のスーツ姿。ネクタイはしていなかったが、同じく黒いワイシャツは首元のボタンまできっちりとかかっていた。短く刈り込んだ髪に、妙に尖ったような口元と丸い目をした真っ白な顔が印象的な中年の男だった。
 男は、鳥居の近くにあった子供の背丈ほどの石碑の上に、胡坐をかいていた。石碑に上ることは禁じられているのに。入り込まないように柵がめぐらせてあったのだ。
 「水なんて持っていないよ」と、私は答えた。実際、虫採り用の網と籠しか手にしていなかった。<知らない人に道で話しかけられた時>という夏休み前に与えられた注意が頭の中でぐるぐると回っていた。
 「持ってきてくれないか?」男は、重ねてそう言った。何と返事をしたかおぼえていない。男に背を向けて一目散に逃げ出したからだ。逃げながら考えていた。あの石碑は先端が尖っていて危ないから柵がしてあるのだ。あの上で、胡坐をかけるだろうか?と。

 あれから何十年も経った。ニュースが故郷の町での子供の失踪を伝えている。あの神社の石碑の柵に、その子の空の水筒がかけてあったそうだ。
 「水をいっぱいもらえないか?」と言ったあの男の声が耳について離れない。子供がいなくなったのは私のせいだという気がする。明日、私は水筒に水をたっぷりと入れて、あの石碑のある故郷の町を訪ねてみようと思っている。

第7回ビーケーワン怪談大賞応募作
福澤徹三ベスト50に選んでいただきました。


Kwaidan 第7夜・「砂」

 ある夜、帰宅すると、砂の像になってしまった妻をキッチンで見つけた。南の島の砂浜で集めてきたかのような真っ白な砂だ。首を少しかしげ、右手を前に出した姿勢は何か物問いたげで、少し寂しそうにも見える。
 もしかすると、こうなってしまったのは、その夜のことではなかったのかもしれない。毎日毎日、始発で仕事にでかけ、終電で帰ってくるような生活が続いていた。妻とまともに話をしたのがいったい何日前だったのか、まったく思い出せなかった。気づかなかっただけで、砂像になった妻はずっと、ここにこうして立ち竦んでいたのかもしれない。
 砂が崩れないように、そっと胸のあたりに耳をあててみれば、もちろん心臓の鼓動など聞こえるはずもなく、ただ、さらさらと、砂が流れていくような音がするばかりなのであった。
 それから私は仕事をやめ、ずっとそのような妻と暮らし続けている。砂がひび割れてしまわぬよう部屋の湿度を一定に保ち、時々はその表面に霧吹きで水を吹きかけるのが日課となった。そして、月の綺麗な夜には窓を開け放ち、妻の像にその光をあててみる。白い砂に冷たい月の光がきららに反射して、妻の美しさをいっそう際立たせるのだ。
 私は今、このうえなく幸せだが、ただひとつ不安もないではない。それは、この私の体も、どうやら少しずつだが砂になりつつあるように思えることだ。私もまた砂像となりはててしまうのであれば、誰がこうして妻の美しさを維持するというのであろうか?
 いや、いっそこのまま、ふたりともどもに崩れ去り、小さな砂丘となりはてるのも悪くはないのかもしれない。だから、やがて、私たちの体のなれのはてがいりまじった砂丘に月光がよく映えるよう、窓のカーテンだけは開け放っておこうと思うのだ。

第7回ビーケーワン怪談大賞応募作


Kwaidan 第6夜・「コンビニ」

 仕事が深夜に及ぶことも多いぼくのような職業では、コンビニやファーストフードなくしてはやっていけない。徹夜明けのハンバーガーショップで目覚まし代わりのコーヒーを啜りおえ、会社に戻ろうと店を出る時に、早番の女の子が言ってくれる「行ってらっしゃいませ」に、違和感を感じながらも救われているのは事実だ。
 あいさつは大事だよな、と思う。元気なあいさつは、心を豊かにしてくれる。コンビニだって、レジが無愛想なところより、あいさつの気持ちいいところに行くものね。来店があるたびに「いらっしゃいませ!」とバイト店員の声が唱和するのは、いいものだ。
 まあ、でもな。あれも程度問題かもしれない。マニュアルがどうなっているのか知らないけれど、朝でも深夜でも同じ調子で、「いらっしゃいませ!」とやられると、多少げんなりすることはあるよ。システムテストの合間、深夜の2時3時に行っても、そうなんだから参る。
 特にあそこの店員はひどかったな。店で深夜の休憩時に雑誌とか立ち読みしてると、だれも来店してないのに、やたらと「いらっしゃいませ!」を連発してた。ドアなんて一度も開かないのにな。カップラーメンの代金を払って店を出ようとすると、なんだか物言いたげだったけど、なんか感じ悪い。いくらあいさつしても、お客様にあの態度はいかんよ。
 あの店……今月に入ってもう何人、深夜番の店員の顔が変わったろう?でも、あいかわらずなんだよな。どの店員も、何か言いたげに見えるんだけど、いったい何だっていうんだろ?

Kwaidan 第5夜・「小人」

 玄関の横の植え込みに、妻がホームセンタで買ってきた7人の小人を並べていた。ディズニーのアニメでおなじみの、あのどことなくユーモラスな表情をした小人たちである。
 ところが、最近だんだんとその数が減ってきたのだ。
 ふと気づくと、1体また1体と減っている。誰かが盗んでいるのだろうか?買ってきてからずいぶんと経つし、土にまみれてあまりきれいな状態とも言えない。買ったところで、それほどの値段がするものでもない。

 今朝見ると、ついに小人は1体だけになっていた。その1体も、妙に植込みの端のほうに置いてある。こんな所に置いていたのだったか?
 植え込みをのぞきこむと、水分をふくんでしっとりとした柔らかい土の上に、無数の丸い穴が空いている。深さは1cmほどであろうか?

 まさかな・・・私には、それが小人たちの足跡のように見えたのである。

Kwaidan 第4夜・「終電車」

妙に肌寒さを感じて目がさめた。
西に向かう終電車である。何とかぎりぎりの時間で仕事をおえると、ほとんど駆け込むようにして乗り込んだのだ。疲れていたので、座席につくなり眠り込んでしまったようだ。ぼやけた目で周囲を見渡すと、肌寒さの理由がおぼろげながら理解できた。誰も乗っていないのである。どうやらこの車両には、私ひとりだけのようだ。白々とした蛍光灯の下、空調の音だけが大きく響いている。

乗り過ごしたのかと思った。いくらなんでも、誰もいなくなるわけはない。終電だとはいえ、最寄駅ではまだ降りる人がたくさんいるはずなのだ。行き先を表示した車内の電光掲示板は消えている。窓からは闇が見えるばかりで、どこを走っているのかさっぱり判らない。
前の車両への扉を開く。やはり誰もいないし、行き先表示もない。次々に車両を通り抜けるが、同じである。どの車両にも、誰も乗っていないのだ。
いちばん前の車両にたどりつくと、運転席をのぞきこんだ。運転士は、前を向いたままで微動だにしない。まさか運転中に声をかけるわけにもいかない。後部車両には車掌が乗っているだろうと引き返した。
誰もいない1両目をふたたび通り抜けて、2両目に戻った時、息が止まるくらいに驚いた。乗客がいるのだ。さっきはたしかにいなかったはずなのに。ごくふつうに、何人かが座席にすわっている。次の車両も。その次の車両も。見慣れた、いつもの終電車だ。まばらとはいえ、どの車両にも何人かの乗客がいる。ということは、さっき通ってきた空の車両はいったい何だったのだろう?
電車がポイントを通過するゆれを体に感じ、見知った駅の名を車内アナウンスが雑音まじりに告げるのを聞いて、あることに思い至って体が震えだした。さっきまでは、空調の音しかしていなかったのである。

※この作品は2006年のbk1怪談大賞応募作品です。


Kwaidan 第3夜・「自動ピアノ」

 今住んでいる家に越してきたばかりの頃のことである。夜に和室にいると、たまに妙な気配がすることに気づいた。床の間のあたりで、何やら黒いかたまりのようなものがうずくまっているような感じがするのだ。もっとも、ほんの一瞬のことであるので、気のせいだと思うことにした。何しろせっかく手に入れた我が家なのだ。
 ところが、妻が奇妙なことを言いだした。和室に子供たちが置いているおもちゃの自動ピアノの電源が、勝手に入って、そして切れるというのだ。それも、妻ひとりが和室にいる時だけにそうなる。

 ブーンという唸り音とともに電源が入ると、鍵盤にしばらくふれないと自動オフされる時と同じに「ピンポンパンポーン」とお知らせ音がして切れる。それも、連続して起こるのだ。引越し前には、そのようなことは一度もなかった。
けっきょく、妻は、そのおもちゃのピアノを気持ち悪いと言って捨ててしまった。それから、妻は「和室がなんとなく明るくなった」と言う。
ぼくも、うずくまる黒いかたまりのようなものを見ることはなくなった。
きっと、自動ピアノといっしょに、妻に捨てられてしまったのだろう。
(wanderer)

※この作品は2006年のbk1怪談大賞応募作品です。


Kwaidan 第2夜・「文庫本」

 システムエンジニアなどという職業柄、夜は遅くなることが多い。だから、まだ独身の頃は、深夜のファミリーレストランで一人で食事などということも日常茶飯事だった。
 入社2年目の秋頃、例によってほぼ終電、途中で寄ったコンビニにはめぼしい弁当はなく、今さら自炊というわけにもいかない時間だった。そんなわけで、いつも寄っている深夜営業のレストランに入り、遅い夕食にすることにしたのだ。
 注文を終えて何気なく隣の席を見ると、一冊のカバーをかけた文庫本が置いてある。カバーは駅前の書店のものだ。忘れ物だろうか?本好きということでは人後に落ちないと自負する私のことである。当然、その本を開いてみた。それは、昨年ハードカバーで出たばかりの、ある作家の長編であった。
 「なんだ、もう文庫になったんだ」とちょっとあきれてから、それなら買いなおそうかと思ったのを憶えている。ハードカバー版は入社後の研修期間中から同期の友人にずっと貸したままになっていたのだ。
店員が気づくだろうと思い、食事後、本はそのままにして店を出た。他人の本を自分のものにするつもりは毛頭なく、同じものを買おうと思っていたのだ。
ところが、翌日になって、会社近くの書店で探してみても、その文庫本がない。昨日の本にかけてあったカバーの書店にも行ってみたが、やはりない。妙な感じである。けっきょく、書店経由で問い合わせてみると、その本は文庫化予定がないという。驚いて、昨夜のレストランに行ってもみたが、あの本がどこに行ったかはわからなかった。
 それから2年ほど後、件の本が文庫になったが、あの時あの店で見たものと同じかどうかは自信がない。私は書店のカバーを外してみたわけでも、奥付を確認したわけでもないからだ。あの本が何だったのかは、いまだにわからない。

Kwaidan 第1夜・「箱爺さん」の話

 小学校4年生の頃、遊び場だった公園には、「箱爺さん」と呼ばれる男がいた。30センチ四方くらいの緑色の箱を抱えて、いつも同じベンチにすわっていたと思う。身なりはどこか薄汚れていて、灰色がかった髪はボサボサで無精髭、薄い青色のレンズの銀縁の丸眼鏡をかけていた。そして、箱を撫ぜては何か小さくブツブツ呟いていたものだ。
 ある日公園に行くと、いつもの「箱爺さん」のベンチに、なぜか箱だけが置かれていた。緑色の箱。ぼくは、そこに何が入っているのか急に見てみたくなり、そっと開けてみた。中は同じ緑色の空っぽだった。
気がつくと、いつの間にか爺さんが横に立っていて「開けてしまったのだな」と言った。怒っているようではなく、とまどっているような、そして安堵しているような声だった。爺さんの横には、真っ白なドレスを着た女性も立っていた。その顔を見た時、なぜか怖いと思ったのをおぼえている。肩までのつややかな黒髪と人形のように整った美しい顔をしているのに、目がとても冷たい感じがしたからだ。彼女も「開いてしまいましたね」と言った。目と同じ凍るような声だった。
「ごめんよ、でも何も入ってないじゃないか」ぼくは震えるような声で言い訳したが、彼女に睨まれただけだった。
 彼女は爺さんの方を向くと「これでセカイは……」と言いかけてニヤリと笑った。その美しい顔にはおよそ似合わない、残酷な微笑みだった。爺さんが膝をガクリと落としてその場に崩れ落ちた瞬間、ぼくは後ろを振り返らずに一目散に逃げ出した。
 その日から「箱爺さん」を公園で見かけることはなくなった。だから、箱が開いてどうなったのか、ぼくは知らない。「セカイ」は「世界」のことだろうか?あの箱をぼくが開けなければ、今、世界はどんなふうだったのだろう?

雪の夜

ノックの音がした。
入り口の扉ではない。その妙に急ぐような音は窓の外から聞こえてくるのだ。
わたしは思わず両手で耳をふさいだ。
生まれて二年半になる娘の眠る小さなベッドを見つめながら、夫は帰りが今夜遅くなると言っていたことを思い出し、身震いした。
いつもそうだ。雪の降る夜には、誰かがノックするような音が窓の外から聞こえてくるようになるのだ。
幼い頃からそうだった。寒い季節がやってくるということは、わたしにはおそろしいことだったのである。
父はいつも仕事で忙しく、わたしが起きているような時間に帰宅することはほとんどなかった。母はといえばいつも定まらぬ視点をした、よく言えば夢見るような瞳をしたふしぎな人だった。
思えば、父が早い時間に家に帰っては来なかったのも、そのせいなのかもしれない。父と母が「病院」へ行く途中の自動車の事故で亡くなってずいぶんになる。
わたしは、親戚の間を転々とした。
一年を越えて同じところにとどまることすら、まれだった。それは、けっして親戚たちがわたしを邪魔にしたからばかりではない。わたし自身があのノックの音から逃れるように、居場所を転々としたのである。

まだ母の体が丈夫だった頃、そのノックの音について聞いてみたことがある。
やはり、このような雪の夜だった。
ノックの音に脅えてふるえる幼いわたしに、母はこう言ったのだ。
「だいじょうぶよ、あなたをむかえにきただけなんだから」
おそろしかった。
他の誰に何を言われるよりおそろしかった。いったい誰がわたしを迎えに来るというのだろう?
その答えをした時、母はやはり少し夢の世界にいたのに違いない。翌朝になってから、夢をみるような表情ではなくなった母にその言葉の真意をただしてみても、もはや何もおぼえてはいなかったからだ。
それからも、母が亡くなるまでの間、そのことについては何度も問い直してみたが、ある時には謎めいた微笑を浮かべるだけであったし、ある時には空の彼方を見つめて何かを招くようなしぐさをするばかりであった。
母がわたしと同じ世界を共有できる時間は日々少なくなっていった。
わたしは、いつしか尋ねることをあきらめてしまったが、それで何かが終わったわけではなかった。わたしは冬になるのを恐れ、雪が舞うようになるのをおそれた。

わたしは、所在を南へ、南へと変えた。いっそ、外国で暮らそうかと思い語学を勉強しはじめたのだが、やがてそうするわけにはいかなくなった。
恋をしたのである。
わたしは、父をも早くに亡くしたからであろうか、年が離れた男性に恋をした。母にも父にもよい思い出はない。結婚を決めたとき、わたしはよい母親になろうと思った。
最初の三年はよかった。
夫とは南の土地で知り合ったので、そこで雪が降ってくることはまずなかった。
しかし、昨年になって夫が転勤することになったのだ。雪が多い土地とは言えなかったが、年に何回かは降ってくるであろう、不安はつのった。
そして、今夜、初めて雪になったのだ。
わたしが、雪の降る夜をおそれることを夫は知っている。夫には母と父が亡くなった理由についても隠さず話してあるのだ。最初は妙な顔をしていたが、そのうちに忘れてしまったようだ。いや、忘れたふりをしているだけなのかもしれない。
やさしい夫なのだ。

ふたたび、ノックの音がした。
耳をふさごうとしたわたしは、娘が起き上がったのを見た。娘は窓の方にふしぎそうに目を向けて言った。
「ママ、だれかがよんでいるよ、ママを呼んでいるよ」
わたしの体は金縛りにあったように動かなくなった。
娘には、ノックの音だけではなく、他に何かが聞こえるのだろうか?
わたしが声を出せないでいるうちに、娘は窓辺に近寄り、カーテンを左右に大きく開いた。
何も、何もいない。
わたしは、長くためいきをはいた。
だが、娘はあらぬ方に目を向けて、さらに続けてこう言った。
「そうなの、ママをむかえにきたのね」
わたしの体は凍りついたままだ。
「雪がふるとさむいから、ママをあたたかいところにつれていこうと思ったんだって。でも、ママにはわからないんだね。かわりにあたしをつれていきたいって言ってるんだけどいいかしら?」
娘の声は、妙におとなびて聞こえる。あるいは、迎えにきたという者が言わせているのだろうか?
「待って、置いていかないで」
わたしはどうしてそう言ったのだろう。きっと、無意識にすべての答えがわかっていたからにちがいない。
いつも夢見るようだった、母…。
いつしか娘の瞳は、昔わたしが母に見たのと同じ、夢見るようなものに変化していた。
娘の小さな体は、雪がやみ雲間から顔をのぞかせた十六夜の月の光に照らされて、ふうわりと浮かびあがっていた。
「いきましょう」
娘がそのあとに、あのおとなになることを拒否した少年の名前をつぶやくのをわたしはたしかに聞いたと思う。

どのくらいあとになってからだろう。わたしは、開け放たれた窓の前に呆然としたまま跪き、とめどなく涙を流している自分に気がついた。
わたしにはもう見えない。
わたしにはもう見えないのだ。

トロイメライ 第十夜・雨

 こんな夢を見た。
 雨音が聞こえる部屋の中でひとり珈琲を飲んでいる。
 でも、もしかしたらこれは空耳で、ほんとうは雨なんか降っていないんじゃないだろうか。
 そう、思いながらも、窓の外を確かめてみようとはしない。
 ただ、珈琲の芳香を楽しんでいる。

 雨音は絶え間なく、夜もまた長い。
 急ぐことなど何もないじゃないか。
 夢の中の私はそう思っているのだった。

トロイメライ 第九夜・街角

 その人のことを目にするのは、いつも街中の雑踏にまぎれてだ。
 後ろ姿しか見えない。
 どこかに急いでいるように、小走りで私の視界をほんの少しだけかすめるようにして横切っていく。
 その人は、いつも違う姿で私の目の前に現れる。ある時は会社員風の男性であり、ある時は幼い少女であったりする。知人の姿をしている時さえある。一度などは、私の両親の姿をしていたことさえある。
 それでも、街角に佇む私の目の前をその人が通り過ぎる時、「その人である」ということが私には判る。これは大事なことだ。
 なぜ大事であるのかは判らないのだが。

 私はその人に声をかけたことはない。
 不安があるのだ。
 声をかけた途端にその人がその人でなくなってしまうような。
 その人は、私の目の前を通り過ぎるだけの「客人(まろうど)」なのか。
 いや、そんな筈はあるまい。
 私は、その人のことをよく知っている気がする。

 緑に輝く森の中で出会ったような。
 月に照らし出された細道の彼方に訪ねたような。
 古びた図書館の一室で待ち合わせをしたような。
 覗き込んだ鏡の中に見つけたような。
 黴臭い暗い座敷でいつまでも待っていたような。
 仮面の下に隠されたその素顔を垣間見たような。
 夜のプラットフォームでいつまでも待ち続けたような。
 その人の墓前に詣でたことがあるような。


 ああ、まただ。
 その人が来た。今夜は女性の姿をしている。茶色のロングコートに身を包み、ほんの少し小走りに、私の前を通りすぎていく。
 今は冬なのだろうか。
 女性の手にはコートの落ち着きには不似合いなピンクの毛糸で編んだ手袋がはめてある。
 私は決心して声をかけることにする。

 そうだ、よく知っている名前のはずだ。
 よく知っているはずの名前なのだ。
 ヨ・ク・シ・ッ・テ・イ・ル…・・

 「もしもし…・」

トロイメライ 第八夜・墓標

 こんな夢を見た。
 どんよりと曇った、今にも雨が降りだしそうな空の下を、私はゆるやかな丘をのぼっていく。
 秋なのだろう。黄色くなった葉が、丘の上のポプラの木から舞い落ちている。
 数本立ち並んだポプラには、ほとんどもう葉が残ってはいない。まるで、何体かの骸骨が、無気味に絡まりあっているかのようだ。
 丘の上にあるのは墓地である。
 西洋墓地だ。
 さまざまな意匠をこらした墓標が整然と並んでいる。古い年代が刻まれたもの、ごく最近のもの、長い年月を生きた人のものもあれば、短命に終わった人のものもある。
 私はそれらの間を通り抜け、やがてひとつの目立たない墓標の前で足をとめた。
 それは、よく知っている人のようでもあり、まったく知らない人のもののようにも思える。
 ただ、私がそこに花を供えにきたことだけは確かである。私は、この墓地にはひどく不似合いなようにも思える華やかな花束を手にしているのだ。
 紅色の花でつくられた花束なのだが、私にはその花が何という名前であるのかが判らない。
 どうでもいいことのように思える。
 墓前にその花束を置くと、私はこれからどうすればよいのか判らなくなってしまう。祈りを捧げるべきなのか、それとも泣き崩れるべきなのか。
 判らないまま、私はそこに立ちつくしているのだ。


 そして、やがて私はその墓標に、今まで気づかなかった文字がほんの一行だけ薄く薄く刻まれていることにやっと気づくのだ。

 「ここに少年の日々を葬る」
 と。

トロイメライ 第七夜・夜汽車

 こんな夢を見た。
 私は旅に出ようとして、駅のプラットフォームにひとり佇んでいる。
 夜のプラットフォームだ。
 冬の初めであるらしく、吐く息が少し白い。
 どこに旅に出ようとしているのかは判らない。手にしている茶色の皮張りのトランクは、よく使い込んであるもので、しっくりとなじんでいる。
 きっと、私は長い旅を続けてきたにちがいない。そして、これからもこの長い旅は続くにちがいない。
 これから出ようとしている旅も、旅の終わりと始まりをつなぐ、そんな途中経過の旅路のひとつなのだろう。
 
 もうすぐ、プラットフォームには列車が入ってくるはずだ。洒落た列車ではない。夜汽車にふさわしい昔ながらのもので、座席はきっと木製にちがいない。窓からは、冷たい隙間風が吹き入るだろう。
 そんな列車を選んで旅をしてきたような気がする。
 けっして気楽な旅というわけではなかったが、苦しみだけが多かったというわけでもない。
 結局のところ、誰でもが旅している、そんな旅路のひとつを私もたどってきたにすぎない。
 
 プラットフォームを白く照らしだしている誘蛾灯が、じりじりと音を立てている。その向こう側を見ると、夜の暗闇が広がっているだけで、星さえも見えない。きっと、もうすぐ雨になるのだろう。
 私は、列車を待ちながら、煙草に一本火をつける。
 長く吐き出した煙が、空に消えていく。
 まだ、列車は到着しない。
 他に待つ人のいない駅は、まるで無人駅ででもあるかのように、静寂に包まれている。
 でも、これから乗ろうとしている列車には、何故か親しい人が乗っているような気がする。
 列車を待つときに、そんな不思議な気がしたことが、あなたにはないだろうか。私は今、そんな気分なのである。その誰かと巡り合うためにこの長い旅を続けてきたような......。
 もし、そうであるならば、これからの旅は、今までと違ったものになるはずだ。
 やがて、遠い汽笛とともに私のもとに現れるであろうその人のことを、私はこのプラットフォームで待つつもりである。
 その人がこの列車に乗っていなくても、しかし私は失望したりはしない。駅に降り立つたびに、しばらくその人をまた待つであろう。いや、もしかしたら、その人はどこか別の駅の、やはりこのようなプラットフォームで、私を待っているのかもしれない。

 まだ、列車は到着しない。

トロイメライ 第六夜・仮面劇

 こんな夢を見た。
 あふれるほどの光に満ちた場所で、ゆるやかな着物をまとった人々が、舞い踊るように歩いている。
 空は碧。
 大地は緑。
 そして耳には快い音楽が聞こえる。
 何もかもが、平和の色どりを帯びているようだ。私もいつしか彼らのもとに魅せられたように近づいていく。
 あたかも、そこに至福の時間があるかのように、一歩、また一歩と。
 
 しかし、いつしか私は歩みを止める。
 それは、私が彼らのほんとうの姿に気づいてしまったからなのだ。
 ああ。
 彼らの顔を覆っているのは何なのだろうか?
 仮面。
 いや、ぴったりと皮膚にはりついたそれは、仮面というにはあまりにも生々しいものであった。
 さまざまな表情がそこには描かれている。
 微笑(ほほえみ)。
 苦痛(いたみ)。
 歓喜(よろこび)。
 立腹(いかり)。
 そして悲哀(かなしみ)。
 しかし、それらの表情はどれも虚ろだ。
 誰も自分のほんとうの表情は見せてはいない。まるでぎこちない演技者のように、彼らはそれを隠しているのである。
 どうして?
 判らない。
 だが、そうして彼らを眺めているうちに、ひとりが私のほうに近寄ってきた。
 指先で私を招いている。
 自分たちの列に加われというかのように。
 私は拒否した。
 すると、私の腕をつかんで、無理にも引っ張っていこうとするのである。
 思わずその手を振り払う。
 無表情な仮面演技者の列に、私は加わりたくはないのだ。
 いつしか、私の周囲には彼らが集まっている。ただ、沈黙のままに。
 いやだ。
 いやだ。
 私は彼らから逃げ出そうと走る。
 じょじょに狭くなっていく輪。
 見えない力にからめとられていくかのようだ。
 逃げ場がない。
 思わず、彼らのひとりに掴みかかる。
 ただ、恐怖から、やみくもに。
 揉み合っているうちに、私の手は偶然、彼らの仮面を掴んでいた。
 剥ぎ取ってやる。
 私はそう決心すると、ひとりの顔から仮面を毟りとっていた。

 ああ、何ということだ。
 仮面の下はただの空洞だ。
 暗闇が巣食っているだけなのだ。
 何ともいえない不安に駆られ、次々に私は彼らの仮面を剥ぎ取っていった。
 だが、その下に自分の顔を持っている者はひとりもいない。
 仮面を剥ぎ取られた人々は、存在することをやめ、消えていく。
 そして、音楽もまた。

 いや、どちらも、最初から存在していなかったのかもしれない。
 あとには、ただ空の碧と大地の緑だけが残った。

トロイメライ 第五夜・人形

 こんな夢を見た。
 どうやら、座敷にすわっているらしい。
 暗くて、よくは判らないのだが、とにかく畳の匂いがする。
 藺草の香りが、ほんのりと黴臭さを帯びている。
 何かに押さえつけられるかのような、あの古い座敷に特有の圧迫感が、そこには満ちていた。
 闇に潜みながら、私の身体に忍び寄ってくるようだ。
 深く吐息をつき、耳を澄ませる。
 遠くから、ひそひそと人の話し声がする。
 「客人(まろうど)はお待ちかえ」
 「控えの座敷にて」
 「そろそろじゃえな」
 「そろそろじゃえよ」
 「姫君もお待ちにて」
 「おお、そうともよ」
 「迎えには黒童子(くろわらわ)をやるかえや」
 「紅童子(べにわらわ)こそよかろうよ」
 それらの声は、時にはふくみ笑いなどしながら、何やらを相談しているらしい。
 そのうちに目も慣れてくると、じょじょにではあるが辺りの様子もうかがえてくる。
 どうやら、三方は壁、正面は襖であるらしい。
 黒檀の枠に白一色のみの襖紙。絵などは何も描かれてはいない。
 そして、闇に浮かぶ能面。
 右手の壁には小面(こおもて)、そして左手には般若(はんにゃ)。
 他には調度とて何もない。
 どこからか時計の振子が時を刻む音が低声で精確に聞こえてくる。
 それに合わせて、ひそやかに鼓動を打っている私の心臓。
 私はしだいにその座敷の重苦しさに耐え切れなくなってくる。姿勢を崩すこともなく正座を続けているので、足はもはや感覚を失ってしまっているようだ。
 それでも私はじっと待ち続けている。
 何を?
 それは、私自身にも判っているわけではない。ただ、私は待つことだけを強いられている存在なのだ。
 じっと襖だけを見つめている。
 時が永遠に近いくらい過ぎ去るまで。

 すると、そのうちに音もなく襖が左右に開かれた。
 奥から姿を現したのは、みっつくらいのあどけない顔をした少年である。
 少年は私に向かって一礼すると次の間を指し示した。
 問いかけるように見つめると、少年は微笑して頷いてみせた。
 私は立ち上がると少年に案内されるままに次の間に入った。
 痺れ切った足はまるで宙を歩いているような、雲を踏んでいるかのような感じだ。
 隣の間は、座敷というよりは畳を敷きつめた長い廊下といった感じであった。
 どこまでも、どこまでも奥へ続いている。
 少年は私に左右を見るようにと、しぐさで示した。
 そこにあったのは……・。そこにあったのは、私の背の高さと同じくらいの木棚に飾られた無数の雛人形であった。
 座敷の両側の棚いっぱいに飾られた雛人形たちは、どれも女雛である。
 そして、不思議なことにきらびやかな衣装をつけた彼女らは皆、顔を背けていた。美しい眉は悲しみに歪められ、瞳は何かを拒否する色合いに染まり、口元は苦痛に歪められている。
 「黒童子(くろわらわ)よ。客人(まろうど)は御到着かえ」
 雛人形の列の向こうから、そのような声がした。
 「はい、姫様がた」
 答えた少年の声は、そのあどけない顔とはあまりにもかけ離れた老爺(ろうや)のものであった。
 その何と無気味なことか。
 私は何ともいえず恐ろしくなって、あとずさりした。
 「客人(まろうど)よ、妾たちが顔をそむけているわけが判るであろうな」
 まとわりつくように、ふたたび声がする。女雛たちの声であることは、もはや明白だ。
 「判らぬと申されようか?」
 笑い声。
 「さて困ったことじゃの。こちらを向かれるがよい。そして妾たちをその腕に抱かれるがよい。さすれば、思い出されるであろうよ」
 人形たちの誘惑の何と抗いがたいことか。
 その誘いは、艶やかな響きさえ宿しているのだ。
 私は雛人形の列へと、いつか引き寄せられていく。
 逃れるすべのない呪縛。
 それは、私がこの夢の中にいる限り、逃れることのできない呪縛なのだ。
 そう、永遠なる……。

トロイメライ 第四夜・鏡

 こんな夢を見た。
 ぽつんとひとりきりで暗い部屋の中に佇んでいる。
 目の前には私より数十センチは高さのある楕円形の大きな鏡がはめこまれている。縁どりは白い大理石で二匹の蛇が絡まりあっている彫刻が施されており、ちょうどいちばん上の部分で交叉した鎌首は下のほうへ向かって伸びている。一方の蛇には碧玉石(サファイア)が、もう片方には紅玉石(ルビー)が双眼にはめこまれていて、まるで生きているかのようにぬめりとした感じがする。
 私は何も喋りもせずに、じっとその鏡をのぞきこんでいるのである。
 どのくらいそうしていたであろうか。私は虚像にある変化が起こっていることに気づかずにはいられなかった。
 年をとっている。
 鏡の中の私は明らかに目に見えて年老いていた。
 おお。
 顔に皺が増え、頭は白くなりつつある。
 腰もどんどん曲がっていく。
 それでも私はなす術もなく立ちすくんでいるのだ。
 たまらない、胸をしめつけられるような感じがした。
 虚像はなお加速度を増しながら崩れていく。
 皮膚はぼろぼろになり、髪はぞろりと抜け落ちた。着ていた衣服は既にちぎれさり、裸の体に骨が浮いている。
 いや、見る間に体の肉が腐れてさえいくのである。赤黒い内臓が肋骨の間からはみでていく。
 眼球も抜け落ちた。
 すべては塵に。
 すべては塵に。
 いつの間にやらそう呟いている。
 言葉通り、鏡の中の私はもう人としての形をなしてはいなかった。
 それでも、なにやら震えるように蠢いている。
 そこにあるのはただの肉塊。その中を何かが這いずりまわる音がする。
 蛆。あるいはもっと別の屍食者。
 こみあげる嘔吐感、そして恐怖。
 あれは虚像だ。
 あれは虚像だ。
 そう自分に言い聞かせている。その証拠にここにこうして何の痛みもなく立っているではないか。自分の体を確かめるように探ろうとする。
 ない。
 なにもない。
 鏡像ではない自身を見下ろしたけれど、そこにはただ無のみが存在していた。
 いったいこれはどういうことだ。
 すべては塵に。
 すべては塵に。
 もう、鏡のあちらにも、そしてこちら側にもなにもありはしない。
 
 その時初めて、時間というものがほんの少しだけ理解できた気がした。

トロイメライ 第三夜・図書館

 こんな夢を見た。
 熱く焼けたコンクリートの階段を登ると、古びた今にも崩れ落ちそうな木造の建物が見えてくる。
 よく知っているところだという気がしてならない。
 はて、ここはどこだったろう。
 不思議に思って、もっと近づいてみた。
 建物は木造の二階建てで、一階には誰もいる気配はない。
 窓なども破れてしまっていて、さながらお化け屋敷といったところだ。
 私は二階へと昇っていく。
 ほこりのたつ、ところどころ腐っている廊下を歩いて進んでいくと、なんとなく心魅かれる部屋がある。
 扉を開いて中へ入った。
 そこには古びた本の山があった。
 しかも、尋常ではない種類のものばかりだ。あらゆる国、あらゆる時代の白魔道や黒魔道の書物が細大もらさず集めてある。
 そして、その中には、「死霊秘法(アル・アジフ)」、「象牙(エイボン)の書」、「無名祭祀書(ネームレスカルツ)」などといった実際にはありえないような書名さえもが混じっているのだ。
 それらの何と蠱惑的なことだろう。
 私は時間のたつのを忘れて、それら禁断の書物を読みふけった。
 この世のことならぬ真実を知った者にどのような罰が下されるのであろうかと恐れながら。
 ここまで私を追いつめたのはおまえなのだぞ。
 ここまで私を追いつめたのはおまえなのだぞ。
 いつの間にやらそう呟いている。
 いったい、おまえとはだれなのか。そして、どこに追いつめられたというのか。それが自分自身わけが判らずに不安でならぬ。
 ただ、これらの書物を早く読んでしなわなければならないという焦りと恐怖にせかされている。
 なぜ、もう読むのをやめない。
 ここまできてやめられるものか。
 相反するふたつの心の声
 いつの間にやら額にはべっとりと汗。
 手の甲でそれをぬぐうと、立ち上がる。
 息苦しい。窓を開けよう。
 陽光のさし入る窓辺に近寄り、開く。
 すると、吹き入った風で本のページがめくれた。
 
 窓から首を出してのぞく。
 焼けつくコンクリート。
 赤い鞠がひとつ、ポツンと転がっているのが見える。
 
 もう、読むのをやめようと思った。

トロイメライ 第二夜・月の夜

 こんな夢を見た。
 どこだか判らないのだが、とにかくとても長い土手にそって歩いている。
 河ぞいであるらしいのだが、暗すぎてよくは見えない。
 ただ、流れの音がするからそうなのだろうと思うだけなのだ。それらしい虫の声などもするし、遠く牛蛙なども鳴いている。
 振り返ってみると、背中を青白い色の月が追いかけてくるのが見える。
 無論、満月だ。
 なぜ満月でないとならないのかは釈然とはしないけれど、とにかくそうでなくてはならない。そのことだけには妙な自信がある。
 とにかく、そのようにして、私はどんどん歩いている。けれど、いくら歩こうが辺りの風景はいっかな変わりはない。土手はどこまでも続いている。
 私の足はもう棒のようになってしまっている。
 でも、どんなに疲れようが立ち止まることは許されていない。歩き続けなければならないのだ。
 なぜ、そうしなければならないのか、これもまた釈然とはしていない。けれど、止まれば何か恐ろしいことになる、そんな気がしてくる。
 あまりの辛さに、歌でも口ずさんで気を紛らわせようかと考えたが、自分の喉から出てきたのは何ともいえぬ暗くて陰気な旋律であった。

 ひとつ、人気のない森は
 ふたつ、震えて通るなり
 みっつ、水辺に咲く花は
 よっつ、黄泉(よもつ)のものなるか
 いつつ、異郷に彷徨(さまよ)える
 むっつ、虚しき者なれば
 ななつ、無くした肉体(からだ)ゆえ
 やっつ、闇夜のその中で
 ここのつ、恋しく泣き濡れて
 遠く想いを馳せるなり

 このような歌を繰り返し歌いながら私は歩いていく。
 さて、これはどういうことなのだろうか。
 私は、すでに死んでしまったのであろうか。
 判らない。
 どうにも判らないのだ。
 ただ、青白い月の光を浴びながら、私はどこかに歩いていくのである。
 またも、自身のかすれた声。

 ななつ、無くした肉体(からだ)ゆえ…・・。

 答えるかのように、遠く牛蛙の鳴く声がした。

トロイメライ 第一夜・緑の森にて

 こんな夢を見た。
 私は深く静かな森の中を、ひとりの背の高いすらりとした少女とともに歩いているのだ。午後の陽光に照らしだされて緑は萌えるように鮮やかであり、そこに在る生命すべてが確かな躍動を感じさせた。
 それはどうやら夏のことらしく、少女はまっしろな半袖のワンピースを身につけている。頭には同じ色のつばの広い帽子。そこに飾られたレモン色のリボンが腰のあたりまで伸ばした黒髪の半ばまで垂れてすばらしいコントラストを形成している。ほっそりとした素足にじかに履いているのは赤いハイヒール。そんな街中を散歩するかのような格好で、少女は私の傍らを歩いているのだ。

 どのくらいそうして歩いていたであろうか。少女が不意に走りだした。まるでその森を棲み処とする妖精であるかのような軽やかさで。それは私から逃げていこうとする風情かとも思われた。
 逃げていく。そう、確かにそうだ。それも、追いついてごらんなさいとでもいうように時おりこちらを振り返りながら。私はといえば、その時になってやっと少女が自分の恋しいひとだと気がついたのだ。少女を追って走りだす。
 木の根にヒールをつまづかせはしないかという私の不安をよそに少女は舞うように走る。彼女の銀の鈴を振るような笑い声が風に乗って聞こえる。もう少しでつかまえられるのではないかと思える距離に何度もとらえながら、どうしても衣の端に触れることすらできない。もっともその時にはすでに、そんなことはどうでもよくなっていたのだ。ただ、心楽しいその時間がいつまでも続けばよい、それだけを考えていた。
 そうしているうちに、少女と私は森を抜けて視野の広がりを得た。地平の彼方まで見渡せる一面の草原、そこに小川のせせらぎがある。水は清く澄んでいて、玉のような小石が陽光にきらきらと輝いているのが水底に見える。せいぜいくるぶしのあたりまでを濡らすほどの深さしかない。
 少女はヒールを脱ぐと左の手にそれを持ち、両足をそのせせらぎの中にひたした。そしてあなたもおいでなさいよというように私の方を振り向き、帽子を空に抛った。
 その時になって初めて私は少女の顔を正面から見たのであるが、それが誰なのかまったく判らないのである。とてもなつかしい、親しい人であるのは間違いないのだが、呼びかけようにも私は彼女の名を知らないのだ。
 少女はといえば、当惑顔の私をよそにあいかわらず水辺に戯れている。
 草原を渡る風が彼女の黒髪を靡かせて攫っていく。
 水沫があがる。
 背後では通り抜けてきた森の木々のざわめき。

 その一枚の絵画のような風景の中で不意に私は理解していた。確かに少女は私の恋人なのだ。ただ、現実(うつつ)においてまだ知り合っていないのだな、と。

小松左京とその時代 (小論文)

 「SF」というジャンルは今では広く受け入れられている。書物、映画、コミック、TVドラマ、それはメディアを超えて存在する。我々の周囲は、そして日常は、きわめてSF的事象で満ち満ちていると言っても決して過言ではないだろう。
いや、むしろ今となってはSF的要素をまったく含まない芸術作品というものは、探し出すのも難しくなっているのかもしれない。我々の目が常に何年か先を見つめなければならないとすれば、そこにSF的な視点が介在してくるのは、むしろあたりまえになってしまった。我々自身が、かつてSF世界に描かれた未来都市に住んでいるのである。
 しかし、ほんの数十年前まで、このジャンルは荒唐無稽とされ、社会的認知度において日本では低い位置にとどまっていた。かつては『竹取物語』がSF的であるとはけっして言われなかった。『浦島太郎』の宇宙旅行説も存在しなかった。日本という風土にはいささか馴染みにくいようにも思われるSFというジャンルは、いかにこの国に取りいれられ、そして根付いたのであろうか。
この稿では、日本SFの黎明期にあって巨星の輝きを放った小松左京という作家について考察し、併せて60年代から70年代にかけての小松SFの姿を追ってみたいと思う。

 日本のSFを語る時、忘れることのできない作家が四人いる。小松左京、星新一、筒井康隆、そして別格として手塚治虫である。この四人がいなければ、どんなに優れた作品が他に存在しようとも、SFというジャンルは今日ほどの認知度を持つことはなかったに違いない。小松左京の未来を俯瞰する視点を持つ長編の数々、星新一の時代性をその背景から徹底的に排したショートショート、筒井康隆のスラップスティック、そして手塚治虫の新しい漫画とアニメーション。まったく違った個性を持つように見えながら、彼らはなぜ表現の手段としてSFという器を選択したのであろうか。SFとは彼らの時代にとってどのような意味を持っていたのであろうか。
 小松左京は一九三一年、大阪に生まれている。いわゆる昭和一桁、「焼跡闇市派」の作家である。京都大学文学部卒業後、経済誌の記者、工場の経営、ラジオ漫才の台本などさまざまな職を経た後、「易仙桃里記」で「SFマガジン」にデビューしている。一九六三年のことだ。それからの活躍は言うまでもないものであろう。「地には平和を」、「お茶漬けの味」で第五十回直木賞候補(一九六三年)、『日本沈没』で第二七回日本推理作家協会賞(一九七三年)、『首都消失』では第六回日本SF大賞(一九八五年)を受賞している。これら重厚な長編に加え、軽妙でブラックな短編を数多く発表しており、今日の日本SFの基礎を築いた。まさに「小松ブルドーザ」と呼ばれるにふさわしい仕事の数々である。

 では、その作品の原点を求めるとすれば、それはどこにあるだろうか。まず、短編「地には平和を」について考えてみたい。この作品は当時SFを志す者にとって唯一の登竜門であった<SFマガジンコンテスト>の努力賞を受賞した作品であり、実質的に処女作と言ってよいだろう。その後に発表された多くの作品の根底に流れる共通した思いが、ここには流れているように感じられる。
「地には平和を」はこんなストーリーである。八月十五日に戦争は終わらなかった。本土決戦にもつれこんで戦局はどんどんと悪化する。学生の志願メンバーを集めて結成された黒桜隊と呼ばれる決死隊に入った主人公は、絶望的な状況の中で、ひとりの奇妙な男に出会う。その男は、この歴史は間違っている、ほんとうの歴史では日本は無条件降伏したのだと告げる。主人公は納得できない。主人公にとっては今いる地獄のような世界こそが唯一無二の現実だからだ。未来の狂った科学者の手によって改変された時間の中で、主人公とその男の会話はひたすら虚しいすれ違いを見せるのである。主人公は言う「なぜそれが正しいんだ?お前らにそんなことを言う権利はないぞ」と。これはもしかすると、戦後しばらくの間は人々の胸の中に、とりわけ少年たちの胸の中にしこりのように残っていた思いかもしれない。
 もとの歴史に収斂された世界で、主人公が家族と休日の一時を過ごしているシーンで物語は終わりを告げる。だが、主人公の胸には「ほんの一瞬、奇妙な冷たい感情」が吹き抜け「この時代全体が、突如として色あせ、腐敗臭をはなち、おぞましく見え」てしまうのである。
 今まで信じていた世界の崩壊。小松左京の作品の中では、しばしばこうして安穏とした日々のすべてがかなり唐突に否定される。まるで、我々に見えている現実には何の意味もないのだとでも言いたげに。その数々の作品には、永遠を見据えた未来に対置させる形でこうした廃虚が描かれるのである。廃虚、それこそが小松左京の作品を読み解くキーワードのひとつではないだろうか。もちろん、この世代の作家たちには、共通に戦時体験があるわけだが、小松左京という作家を読み解こうとする時、廃墟へのある種の憧憬のようなものが感じられて仕方ない。復興の歴史の中で次々に消し去られ、人々の記憶からも遠のいていった「廃墟」、しかしそこにあえて立ち戻ることで示そうとされているものは何なのだろうか。

 処女長編『日本アパッチ族』(一九六四年)はまさに廃虚の物語である。失業罪によって追放刑に処せられた主人公は、追放地の廃虚をさまよううちに、食鉄人種アパッチと出会い、自らも人間であることを捨て、アパッチとなることを決意する。アパッチは廃墟の拡大とともに徐々にその勢力を増し、ついには普通人との全面戦争へと至る。アパッチはスクラップを食い、純鉄を排出するという生理メカニズムを持つ怪人で、廃虚こそ彼らの天国なのである。ふつうの人間も鉄を食べることによって次々にアパッチ化していく。まるで廃墟そのものが意思を持ったように日本政府を倒し、列島の支配権を手に入れたアパッチだが、主人公はアパッチと化した者が決して流すことができない涙を流しながらこう言うのだ。「人間の隣りにおると思えば、アパッチであることもがまんできたのに」と。アパッチは人間という自分たちがもはや受け入れてはもらえない種族を憎悪するとともに深く愛していたのである。

 ここに紹介したふたつの作品は相反することを言っているであろうか。いや、そうではあるまい。小松左京にとって廃虚とは憎むべき敵であり、また何か非常に近しいものでもあった。脱出を試みてはまた帰還を切望するという矛盾を持った、奇妙な懐かしい光景であった。
 それは、戦争体験と無縁ではありえない。その最も多感な時代を戦争とともに過ごし、焼け跡を目にした少年。彼は何を考えていたのであろうか。自らもまた日本という国のために命を捨てる日が来るかもしれないと信じたこともあるだろう少年、だがその思いはどのような形でも遂げられることなく、ぷっつりと摘み取られてしまった。それはある意味でとても理不尽なことであったに違いない。その理不尽さ故に、「廃墟」は小松左京の胸の奥深い場所に根付いてしまったのであろう。
 このような価値の大転換を強いられることは、現代の日本人にとって想像の外にある。我々現代の日本人には価値観を選択する自由が許されているからだ。今まで重要だと信じてきた事柄を、じつはそうではないのだと否定されるショック。それはいったいどのようなものであろうか。そのような体験をした人々は何を考えるようになるのだろうか。
その解答のひとつが前述のふたつの作品となって表れてはいないだろうか。奇しくも短編処女作と長編処女作、廃虚の切望と否定、ここにこそひとつの小松作品の原点があるのだと考えられると思うのだ。

 長編第二作は『復活の日』(一九六四年)、これも破滅テーマである。細菌兵器として開発されたMM菌が事故によって流出してしまう。時を経ずして世界には奇妙なインフルエンザが流行し、またたくうちに人々は死に見舞われていく。低温によりウイルスから保護された南極基地に取り残された少数の人々は、世界が死に絶えていくのを黙ったまま見守るしかない。やがて世界は死滅し沈黙するが、その後に大変な事実が判明する。アメリカとソ連のそれぞれに核兵器の自動報復システムが存在し、近く起こるであろう大地震によってそれが誤作動するかもしれず、しかもそのうち何発かは南極を狙っているというのだ。主人公たちは未完成のワクチンを注射し死地に赴くが、というストーリー。この物語では、医療という人間を助けるための科学が細菌兵器を生み出し、無差別殺傷を目的とした核兵器が逆にこの細菌の駆除に効を奏するというきわめて皮肉な状況が描かれている。不信と矛盾、それでも人々は廃虚に立ち向かい新たな時代を作り出そうとするしかないのだ。「北方への道ははるけく遠く、”復活の日”はさらに遠い。そして、その日の物語は、私たちの時代のものではあるまい」という言葉で締めくくられるこの作品が表している「復活」とは何の復活なのであろうか。それは決して安穏な世界の復活ではありえないのではないか。その「復活の日」が自らの時代のものではないと語る時、小松左京の内部に思い描かれた破滅は単に病原菌によって死滅した世界ではなく、ある種の価値観が崩壊した世界ではなかったろうか。
 エンタテイメント性の高い『エスパイ』(一九六五年)においても、前二作において投げかけられたメッセージは消えることはない。すなわち、人間には存続する意味があるのだろうか?である。この作品では、かなり派手な国際謀略戦が超能力者たちによって繰り広げられるのだが、主人公が出会う最後の敵はこう言う「理性の限界は、その種に固有のものだ。-彼らに技術を理性的に支配する能力がないとしたら、あらゆる手段をつくして、進出をはばまなければならない」この人間以外の存在に対して主人公は必死に抵抗を試みるが、その言葉を否定しきることはついに出来ていないように思えてならない。小松左京にとって、人類という種の存続していくことの意義とはいったい何なのだろう。
続いての『果てしなき流れの果に』(一九六六年)ではがらりと趣きが変わって「時間」と「宇宙」をテーマにした壮大なものとなっている。どちらかというと「時間」に重きが置かれているだろうか。科学的というよりは、むしろ哲学的な雰囲気のする作品であり、小松長編では最も好きだという方も多い。ただ、この作品のモチーフとなったのはアーサー・C・クラークの『太陽系最後の日』のような作品が書きたかったということであり、そこに何か暗示的なものを感じてしまうのは私だけだろうか。まさに果てしない物語を語り終えながら、それをラストシーンでは「夢物語」であると言いきる主人公。どのような膨大な時の流れも、人間の認識力の前には一瞬の出来事に過ぎないということか。それとも、人間にはうかがい知れない巨大な原理が存在するということなのか。この作品が持つ大きな視点は後に『さよならジュピター』(一九八二年)や『虚無回廊』(一九八七年)にも受け継がれていくことになる。
 次に『継ぐのは誰か』(一九七○年)。種としての人類の限界を考察し、小松SFとしては珍しく新人類をテーマにしている。ネットワーク・コンピュータの発達した近未来の大学都市において、ありえないような方法での殺人事件が連続して起こる。友人を予告殺人により殺された主人公たちは、自分たちの手で犯人の究明に乗り出すが、たどり着いたのは電気を能力として操る新しい人類の謎であった。人類はもはや限界にきているのか、彼らこそが人類を継ぐものなのかという深刻な問いが投げかけられる。主人公たちが迎えることになるラストシーンは人間がかつて繰り返し繰り返し犯してきた過ちのデフォルメされた再現なのであろう。「人間というものは、行為において、いつも慎重さを欠いているものなのだ」という結語は、もしかすると小松左京が人類という種に抱いていて正直な感想なのかもしれない。
 そして、ふたたび破滅テーマに戻り小松左京は『日本沈没』(一九七三年)を発表する。七十年代前半の日本SFを代表する作品である。緻密な科学的データと大胆な仮説をもとに構成されたこの作品は、今読んでもまったく古びたところを感じさせない。また、この作品がSFというジャンルに果たした役割はきわめて大きいと言わなければならないだろう。当時、SFというとまだまだ一部の好事家のものであり、また子供の読み物として軽んじられることもあった。しかし、日本全土が水没するという奇抜な発想と、その時日本はどうするのかという国際的視点を併せ持つこの作品は、数多くの人々に受け入れられ映画化までされたのである。SFとはこういうものなのか、と人々に納得させる力を十二分に持った作品であった。その戦慄のシュミレーションは、小松SFのひとつの頂点を示すものである。

 70年代の前半まで小松左京の軌跡を主要な長編とともに追ってきたが、そこから次のように言うことができるかもしれない。小松左京のSFは、戦争体験をバックボーンにした「廃虚」をテーマとしたものである。自分にとって「廃墟」とは何なのかを見つめるために描かれたのがその作品群である。時には憎悪し、またそこからの脱出を試みながら、なおなぜか懐かしさを感じてしまうもの、それが小松左京にとっての「廃墟」であった。「廃墟」を憎み、そこからの脱出をしようとする試みは、遥か時空の彼方を目指す方向性を持つようになった。その代表が『果てしなき流れの果に』であり、また一九八七年に発表された未完の大作『虚無回廊』なのである。また、「廃墟」そのものを考察するための作品としては『日本沈没』や『首都消失』(一九八五年)があげられるであろう。年代を順に追っていただけるとお分かりかと思うが、永遠の時空をテーマにした長編作品と、何らかの破滅テーマを持つ長編作品がほぼ交互に執筆されているのである。これは意図的にそうしたというよりは、無意識のアンビバレンツのなせる業なのではないだろうか。
破滅テーマ最後の長編『首都消失』は突然首都圏が正体不明の壁に取り囲まれ、日本の行政機能が麻痺してしまうという設定で描かれた一種のシュミレーションSFなのだが、じつはこの作品には先行する形で興味深い短編小説が書かれている。ひとつは突然アメリカとの通信、交通手段が途絶えてしまうという「アメリカの壁」、もうひとつは空から奇妙な物体が落下してきて日本列島を分断してしまう「物体O」である。どちらも、人間には窺い知れない奇妙な現象により、人々がそれまでの生活を一変させられるという設定である。『首都消失』に設定がより似ているのは「物体O」なのであるが、じつはこれの正体はじつにとんでもないものなのだ。冒頭の「-女の気まぐれによって、世界が破滅したら-何と美しいことだろうか」という文句。そして、やっとその災害の原因に思いあたった主人公が、じつは自分が災害の継続を望んでいるのではないかと動揺するラストシーン、それは『首都消失』のテーマを凝縮したものに感じられる。

 ここまで長編小松SFを年代を追って見てきたわけだがいかがだろうか?奇妙なアンビバレンツの上にあやういような平衡を保ちながら確立されている、このことこそが魅力であると思うのだがいかがだろうか。
小松左京にとって、人類とは、未来とは、そして日本という国家とはどういう意味を持っているのかと考えていると、とても不思議な気分になってくる。小松左京はきっと、その作品の中で何度も何度も日本を破壊し尽くすことで、彼が現実にはついに出会うことのなかった悪夢の終末を実現させたに違いない。それは、彼にとってはぜひ実現してもらわねば困るものであったに違いない。まず、すべてを否定することから始めざるをえなかったに違いない。そして、自分の手で作り出した廃墟から復活してみせることで古い価値観を完膚なきまでに叩き潰し、ほんとうの意味での彼自身の戦後を実現させたに違いない。国家も人類も、そういった意味では壮大な思考実験の材料にすぎなかった。いや、そもそもそれを思考実験の材料となしえたのは、小松左京の体験した戦後の価値観崩壊なのである。国家とか人類とかいうものにはたいした意味などない。それはどのようにでも転換可能なものであり、いかなる抽象化にも耐え得るものであった。
 小松左京は不満の残る現実の終末をこうした形で昇華させた後はるかなるものへと目を向けはじめたのだが、それでもしばしば原点たる「廃墟」に立ち戻る必要があったのだろう。どのように時代を終わらせれば、新しい時代へのバトンタッチをスムーズに行うことができるか。これはきわめて純粋な意味での実験であった。許容できない現実の終結、彼自身がかつて迎えた終結を許容することなく、何度でもやり直しを試みる、これこそが小松SFの最大テーマなのではないだろうか。

 かつてSFに描かれた世界は次々に現実世界に浸透してきている。ネットワークコンピュータ、遺伝子操作、宇宙開発。それらをテーマにしたSFの中には、もはや古びてしまって今さら読むにはちょっとといったものも少なくないであろう。しかしながら、小松SFはそうした凡百の作品とは一味も二味も違うのである。道具だてそのものより、それによって何を追究しようとしているかということこそ重要であることの何よりの証明となっている。そして、小松SFの追究したテーマは、現代においても未解決なのである。例えば、阪神淡路大震災が起こった時、そこにかつて『日本沈没』で描かれた映像を重ねあわせた人は少なくないはずだ。パニックになればどのような事態が想定されるかをあらかじめ示してあったとしても、人はその知識を十分には活用しきれないものである。我々はもう一度考え直してみるべきではないのか?小松SFが絵空事であった時代はもはや過去のものになりつつあることを認識するべきであろう。
そうしたとき、初めてそこに描かれた裸の真実が見えてくるはずだ。人類にははたして存続する価値があるのかという小松SF究極の問いかけの答えは我々自身で探し出さねばなるまい。
 小松左京自身、その問いに対する解答を探し始めていたような気がする。それが『虚無回廊』なのである。人間を継ぐ者は人間でなくてもよいのではないだろうか。人工知能(AI)を一歩押し進めた形で示される人工存在(AE)はまさにその究極のものであろう。このAEに小松左京は無限の宇宙を探索させようとしたが、連載中断によってそれは未だ果たされずにいる。ネットワーク・コンピュータの発展など最近の技術進歩には目をみはるものがあるが、現実の技術が人間を超える存在を作り出す可能性も今や皆無とは言えなくなってきた。現実の世界で何か大きな過誤のある前に、ぜひ『虚無回廊』でのシュミレーションを完成させてほしいものである。最近、「数多く務めていた会議の座長や委員の役を返上し、執筆に専念することにした」(『SFへの遺言』構成者まえがき/森下一仁)ということなので、大いに期待して待つことにしようと思う。

参考文献『SFへの遺言』(光文社)
他、小松左京諸作品(角川文庫、ハヤカワ文庫、文春文庫、徳間文庫)を引用。

2009/11/01

大野幸太郎氏の訃報

殺陣師、大野幸太郎さん死去 仮面ライダーなど担当

大野剣友会の設立者 大野幸太郎さんの訃報にふれる。言うまでもなく、『仮面ライダー』をはじめとする特撮作品の影の立役者である。幼い頃にさんざん真似をした、さまざまなヒーローたちのアクション。あれらは、大野剣友会抜きには、とても語れない。楽しませていただきました。ありがとうございました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。



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